世紀の大恋愛、マルティン・ハイデガーとハンナ・アーレントの恋愛と、ハイデガーの妻、エルフリーデの物語。
- 作者: カトリーヌクレマン,Catherine Cl´ement,永田千奈
- 出版社/メーカー: 角川春樹事務所
- 発売日: 1999/11
- メディア: 単行本
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読み始めた当初、ドイツ哲学のハイデガーの高い思想にフランス人女流作家がなにをいうかという反感のようなものがあった。直裁に「存在」という哲学の根本を見つめたハイデガー。現代哲学を築いたハイデガー。印象論でしかないか、互いの「存在」を掛けたハイデガーとアーレントとの恋い。こうした「存在」を貶めるかのような、凡庸な不倫の恋、そして嫉妬する妻の物語なのかと、げんなりしながら読み進めた。女流作家にしかかけないであろう一人の男をめぐる二人の女の対抗心まるだしの会話と行動。ああ、もう・・・。
途中から、この小説は、色調がかわってくる。三人それぞれが矛盾する背景を持っている。ハンナのエルフリーデへの感情は、マルティンをナチスに導いたのが妻、エルフリーデであったという疑念から生まれたという。ドイツ国民として生まれたにもかかわらずナチスにより人権を停止され、故郷を追われた、国を失ったユダヤ人。その一人であるハンナが、後のこととは言えどうしてナチスに入党したマルティンと恋愛をすることができたか。一方、私には哲学はまるきりわからないが「存在と時」で語られる「現実の存在」、「現存在」と「存在の根源」の対比とは、まさにマルティンにとってのハンナとの出会いであったと。「存在の根源」をマルティンはハンナに見いだしたと。
そして、ついに悪とはなにか、ドイツ精神とはなにか、ユダヤ人の夢と現実などについて語り始める。アーレンとのアイヒマン裁判を巡る言動を下敷きにした以下の独白は、マルティンとハンナの恋いの裏側にあったドイツの一般国民のナチスへの傾倒と、ドイツに生まれたユダヤ人の悲劇があったことを浮かび上がらせる。そして、その悪の根源とはごくごく凡庸なものであると、ハンナは気づく。
「こんな精彩にかける男(アイヒマン)が、悪に加担したという事実から、悪そのものの凡庸さが浮かび上がる」
「悪は、目立たない、どこにでもあるもの」
その悪とは、ナチスだけが特別なのではない。ハンナが情熱的に活動したシオニズム、イスラエル建国すらも悪から無縁ではいられないと。
「ナショナリズムという病気。わたしは、民族という病気から立ち直ったわ。ユダヤ民族という病気からね。アイヒマン裁判が始まった時、わたしが夢見た国家は、実在しないユートピアでしかないことが分かった」
「悪の根源なんてないのよ。あるのは、ただ巧妙なシステムと、無関心、陳腐さばかり。ユダヤの悲劇はいつまた繰り返されても不思議はない」
そのまた根底に人としての「存在」、ハイデガーの言葉では「現存在」というのだろうか、生きることの根源が一人の人間としてだけ次から次へと浮かびあがる生き方ができる。
「何だかんだ言っても人生は美しいわ。悪は陳腐なもの。わたしは悪に打ち勝ったの。わたしは、一人の人間としてわたしを生きるわ」
まだ、いくらかページを残したまま。楽しみに最後まで読了したい。
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