HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

法律はどんどん人にやさしくなり、組織には厳しくなっていく

そう思ってるのは私だけかと今日まで思っていた。

憲法を持ち出すまでもなく法律には前提とする人格とか、組織格(?)とかがなければならない。ないとすれば、その法律は一貫性がないと言える。分裂症的と言ってもいい。

「進歩的」な考え方の国とは、理性により国家運営が計画できるという信念に基づいている。従って、個人の能力に負うことなく、全体的な計画により国民の幸せは実現できると思っている方々が法律を作ることになる。つまりは、理性の対象であり顔のないモデル的な個人のレベルはどんどんさげることになり、計画通りに動いてもらわなくてはならない各組織への要求はますます大きくなっていく。

他方で、組織が大きくなればなるほど「運命共同体」でなくなるという矛盾もある。私の経験ではだいたい50人を超えた組織は、もうお互いのバックグランドまで把握しきれなくなる。顔を失ってしまう。昨今の企業不祥事の大半は内部告発なのだと聞く。やれることとやるべきでないことの優先順位を間違えた経営者はどうなっても仕方がない。それでも同じ釜の飯を食べた同僚の生活の糧をうしなわせることまでどうでもよいと思える感情が私にはわからない。運命共同体であるという意識はそこにはないのだとしか思えない。

さて、法律のモデルとする人格への要求はやさしくなり、組織への想いがなくなっていく傾向の帰結として、各組織は実にもろくなってしまうということになる。産業の花形であった自動車分野が没落しつつあるように、大きく産業構造は変わりつつある。企業が握っていた利益の源泉が簡単になくなってしまう環境にある。構成員の顔が失われた組織は、こういう時代には実にもろくなる。もろもろの崩壊していく組織を見るたびに暗鬱になる。それでも、一旦できた法律はそうそうは変わらない。この辺がアンバランスが気になって仕方がない。

いぜれにせよ、長いこと日本人をしてると、法律体系という論理感情複合体側の問題なのではなく、法律を作る側と守る側の教育なのだと思い知らされる。*1

ちなみに、この本を読んでみようと思っている。

プレップ法と法学 (弘文堂プレップ法学)

プレップ法と法学 (弘文堂プレップ法学)

*1:運営する側の教育と良識だという話しもある。法曹界の方におかれては落語の人情ものとか体験してて欲しい。