HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

ことばに命をかける、命をことばにかける

太古、言葉は政治の正当性を示すためにあったのだと「倭国の時代」を読みながら思う。

倭国の時代 (朝日文庫)

倭国の時代 (朝日文庫)

中国の歴史書はまさに正当性を示すために存在したのだと知った。「魏志倭人伝」も晋の国の太祖の正当性を示すために、戦功のあった地域に注目を集めるために存在した。卑弥呼に関する記述と、倭人による朝貢は、いわばシヴァの女王のローマ訪問と同様の大スペクタクルであったのだろう。

よって著者の岡田英弘さんは日本書紀に価値を見、古事記を低く見る。

しかし、私は本居宣長の言葉に共鳴するものを感じる。

世の中に生きとし生ける物は、鳥や虫に至るまで、自分の身の程に応じて必ず行わなければならない範囲の事は、産巣日神の御霊によって自然とよく知って行うものである。中でも人は特別に優れた物として生まれて来ているのだから、その優れた程度に応じて、知るべき範囲のことは知り、すべき範囲のことはするものなのに、どうしてそれ以上のことを無理に強要する必要があろうか。教えによらなくては知ることすることもできないというなら、人は鳥や虫にも劣っているというのだろうか。

「直毘霊」(玉くしげ 美しい国のための提言)

倭国の時代」を通して改めて三国志を見ると、下剋上というか、秦以来は実力があるものが価値の残り、過去の歴史を改編することによって自分の統治を正当化している。「日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で」において「普遍語」によって書かれた中国語の「図書館」は統治のためにある。カエサルが答えを出した実力者が権力、支配権を争うことがいかに社会を乱すかの生の姿がある。生の姿であるからこそ、正当性を歌う時には「道」が必要となる。

外国は元々定まった主がいないので、臣下も突然王になり、王も突然臣下になり、また亡び去りもするのが昔からの習わしである。そして、国を奪おうと企んで奪えなかった者を賊と読んで見下し、奪い取った者を成人と呼んで敬うようである。だからいわゆる聖人も賊の成功したものにすぎないのだ。

ちょっと話はちがうが、田母神論文はあまり話題にならなくなったが、武人であれば命を防衛にかけることが究極の仕事だ。自分の命をかけるためには、それだけの統治の正当性がなけれならない。戦場において国を守るために人を殺さなければ自分の家族や地域が殺される。世界中でテロがない人はない。いまだに人は人を殺し続けている。次は、日本の国が蹂躙されない保証はどこにもない。田母神さんを弁護する気はさらさらないが、自分で自分が命をかけるべき国に正当性はあるのか、戦うことに大義はあるのかと答えを求め続けるのは、戦う者にとって当然ではないか。

そして、命を懸けるべき言葉はどこに見つかるかと言えば、たしかに「歴史」である「フルコトブミ」にある。ニコルさんの言うとおり「遠い遠い昔、自分たちの国がこうやって生まれたのだと信じている人々があった」でよいのだ。