HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

「日本語が亡びるとき」と「倭国の時代」

日本語が亡びるとき」は、実は国防問題の書であると受け止めた。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき」より以前にid:finalventさんに勧めていただき「倭国の時代」に触れられたことに感謝したい。そうでなければ、切なるメッセージに気付かずに終わってしまっただろう。

倭国の時代 (朝日文庫)

倭国の時代 (朝日文庫)

倭国の時代」から学んだのは、日本語とは、日本が国として存在しつづけるためにいにしえの人々の努力によって「作られた」言語であるという事実だ。

言いかえれば、七世紀に新羅や日本が統一国家の形をとるまで、中国大陸から朝鮮半島・日本列島へかけての雑多な種族の住民は、ことごとく中国語を共通語として、それを使って政治生活・経済生活を営んできたので、少なくとも意識の上では中国人であった。(中略)
そういう環境が約一千年つづいたあとで、七世紀になって新羅も日本も同時に成立したわけだから両国の共通の先祖は中国なのである。

日本語が亡びるとき」の言葉でいえば、「普遍語」として中国語が君臨してきた歴史の中で、「現地語」である当時の言葉を「国語」にまで早急に高めなければ国として存続していけなかったということである。水村美苗さんは、「三四郎」*1を中心に明治期以降の近代文学の成立にページを割いているが、日本語はその成立からして、国の存続をかけて意識的に作られたのだ。*2

つまりマレーシアと同様、国際関係の危機に直面して、多民族国家から民族国家へ、文化の統合へ、言語の統合への必要に迫られた古代日本でも、とられた手段は、秦人・漢人式の中国語の骨組みの上に、古い倭語の皮をかぶせて、新しい日本語をでっち上げることであった。

詳しい歴史的な検証は本書自体にあたってほしい。古事記の成立は9世紀であったことまで検証してしまっているのは、ちと悲しいものがあるが仕方がない。

水村さんの切なる想いは、福田恆存さんの言葉を借りて最後のあたりで語られている。

「なるほど、戦に敗れるといふのはかういふことだったのか」という最後の一言はいま読んでもなお 胸に迫る。

国語を失うということは、国を失うことだ。「当用漢字」が漢字を教育しやすく守るためにつくられたのではなく、漢字を国語からなくしてしまうために作られたのだと知ったのは衝撃的であった。やはり、敗戦とは国の内側から破れ「負け犬」となることなのだ。

ちなみに、英国はどうか知らないが米国における「国語」教育はたいしたものだと本当に思う。米国生まれの同年輩の親戚がいるのだが、学校教育において読まされる文学の量ははんぱではない。一学期のうちに10冊から20冊くらいは課題図書が出てレポートを書かされていた、小学校で。すくなくとも「蝿の王」と「指輪物語」は同時に読まされていたように記憶する。自分の体験から言っても英作文はかなり徹底的に教育される。数学やら物理やらでどうも米国人ってどうよといいたくなる気持ちはあるのだが、英語の表現力においては、「なんでこんな単純(simple)なやつが説得力のある文章をかけるんだ!」という驚きを何度も体験した。

英語の国語教育の究極は”logic”だね。日本語で言う「論理学」とは違うなにかがここにある。

Logic is the study of the principles of valid demonstration and inference. Logic is a branch of philosophy, a part of the classical trivium of grammar, logic, and rhetoric.

[試訳]

論理学とは、有効な証明と推論の原理についての学問である。論理学は、哲学の一分野であり、古典的な(中世の)大学の三学科である文法、論理学、そして修辞学の一部である。

Logic - Wikipedia, the free encyclopedia

まがりなりにもGmatを受けてB-Schoolに入ったのだが、”logic”には本当に歯が立たなかった。言葉で明確に表現し、言葉で十分以上な説得力を持たす術として、学問は数百年間も存在してきた西欧の伝統に、倫理的心情や趣味的な文学表現としてしかみなされてこなかった日本語との差は確かに大きい。この伝統の下に米国の学校教育で「国語」の持つ比重は非常に大きい。2年間のコースでも、この教養の差は埋められなかった。その反動として、理系の学科に割く時間が少なすぎるのではないかと私は思ってきた。

繰り返すが、国語なくして国はない。本書が訴える切実さに実に共鳴する。そして、福田さんが指摘したようにいまだに披占領国である負け犬日本であることと、「日本語が亡び」国が亡びてしまいかねない現在を憂える。

この意味でいえば、本書は「歴史の終り」の日本版であるともいえる。

歴史の終わり〈上〉歴史の「終点」に立つ最後の人間

歴史の終わり〈上〉歴史の「終点」に立つ最後の人間

歴史の終わり〈下〉「歴史の終わり」後の「新しい歴史」の始まり

歴史の終わり〈下〉「歴史の終わり」後の「新しい歴史」の始まり

フランシス・フクヤマが民主主義が究極の政体であるとヘーゲルの知見を受けながら書いてから、ずいぶん時間がたった。テロ、9.11、金融危機など、ほんとうに民主主義、しかも米国式民主主義が「歴史の終り」なのか、最後の人類はこのまま生き続けられるのか、疑問がなげかけられている。本書にも同様の側面はある。

■ああ、もうおっしゃるとおり

英語が普遍語であるのは、上述の通りそうなるだけの教育システムがあるからだ。

日本の国語教育や英語教育をだめにしているのは、著者が守ろうとしている「文学」である。国語の時間に教わるのは小説の解釈ばかりで、自分の意見を発表する訓練はほとんどない。英語の授業では、まともに発音もできない先生が小説を重箱モードで解釈し、1年かかって100ページぐらいの薄い教科書を読む。こんな教育をしていては、大量の英語の文書を読んで表現することは絶対にできない。国語や英語の授業は廃止し、英語はすべて語学学校にアウトソースして、大学入試の語学はTOEFLで代えるべきだ。

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*1:-[書評]三四郎 only yesterday: HPO:個人的な意見 ココログ版

*2:それは、ちょうどシェークスピアとその同時代人が現代につながる英語の表現を造ったのに似ているのかもしれない。英語だってついこの間までかなりローカルな言語だったのだ。ほんとうは「貨幣の複雑性」を持ち出して、「普遍語」だっていれかわることが大いにあるのだと言いたい。