HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

九州には歴史ロマンが満載!

卑弥呼に関するYoutubeを見た。先日の九州での旅行での見聞と重なって歴史のロマンを強く感じた。

www.youtube.com

3世紀の人物と言われる卑弥呼古事記日本書紀には見当たらない。そもそも、卑弥呼から150年ほどどの歴史書にも明確な記述がない空白の世紀であるという話しだ。そして、卑弥呼がもし古事記日本書紀に記述されているのだとすれば神功皇后ではないかという内容だった。

ちょど、神功皇后を祀った宇佐八幡宮を訪れた。言葉では言い表せないほどの「神域」であるとの感覚があった。


御祭神である八幡大神さまは応神天皇のご神霊で、571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地に ご示顕になったといわれます。応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをされた方です。725年(神亀2年)、現在の地に御殿を造立し、八幡神をお祀りされました。これが宇佐神宮の創建です。

八幡総本宮 宇佐神宮

応神天皇神功皇后の子供。この神功皇后がすごい。

夫の仲哀天皇の急死(200年)後、神功皇后が201年から269年まで政事を執り行なった。仲哀9(200)年3月1日に神功皇后は齋宮(いはひのみや)に入って自らを神主となり、まずは熊襲を討伐した。その後に住吉大神の神託で再び新羅征討の託宣が出たため、対馬の和珥津(わにつ)を出航した。お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗百済朝貢を約したという。

三韓征伐 - Wikipedia

朝鮮半島の歴史書にも対応する記述があるのだと。

三国史記新羅本紀
173年 - 倭の女王卑弥呼[4]が新羅に使者を派遣した[5]。
193年 - 倭人が飢えて食を求めて千人も新羅へ渡った[6][7]。
208年 - 倭軍が新羅を攻め、新羅は伊伐飡の昔利音を派遣して防いだ[8]。
232年 - 倭軍が新羅に侵入し、その王都金城を包囲した。新羅王自ら出陣し、倭軍は逃走した。新羅軽騎兵を派遣して追撃、倭兵の死体と捕虜は合わせて千人にも及んだ。
287年 - 倭軍が新羅に攻め入り、一礼部(地名、場所は不明)を襲撃して火攻めにした。倭軍は新羅兵千人を捕虜にした。

卑弥呼というと、吉野ヶ里遺跡を思い出さざるを得ない。

hpo.hatenablog.com

吉野ヶ里遺跡の王宮と思われる巨大建物のすぐ裏に物忌というか、巫女の住居であった建物がある。現地の学術ガイドさんに教えてもらったのだが、それぞれの建物の角度がまた実に微妙。魏志倭人伝の記述そのもので、住んでいた人物が誰からも見られることなく活動できるように建てられているように思われる。

卑弥呼神功皇后、あるいは吉野ヶ里遺跡の巫女、同一人物であったか否かはなかなか歴史の結論のでる問題ではないが、3世紀の日本には女性が活躍したことは歴史上の事実なのだろう。実にロマンを感じる。