実は夏から準備していた。どうにも途中で気が乗らなくなり、提出しないままになってしまった。論文といっても、この日記などで書き散らしたにすぎない内容だが、せっかく話題になっていることだし一応載せることにした。
ごくごく地味に募集された今回の懸賞論文が、空幕長更迭という事態を迎えるほどの大事件になってしまった。そもそも募集をした主体はかなり右派で有名であった。私が準備したのも、その路線なら多少過激なことを書いても許されるであろうという目論見があったからだ。それが、これだけの重大問題になってしまったのは、これは実は佐藤優さんにとっての「国策調査」と同じ意味を持つからではないだろうか?
- 作者: 佐藤優
- 出版社/メーカー: 新潮社
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「国家の罠」において指摘されていたのは、国の政策転換においてはスケープゴートが必要であり、そのためには法律の適用ぎりぎり、あるいはこれまで不問とされていた行為ですら問題視されるようになるということはなかったか?金融危機を迎え、小泉政権における都市再開発政策によってひとつの構造体ができていたものが、いままさに転換しようとする現れが今回の更迭事件につながったように思えてならない。誰もが更迭は現行法規で許容される行為ではないと知っている。まだ中国様ですら問題にしていなかったのに、「国際感情」を理由に決定されるべきではなかった。それでも、この更迭が行われたことの持つ意味は深いと私は思う。
今後、募集前から誰が懸賞金を取るのか決まっていたというような筋書きが書かれ、より大きな問題に作られていくのではないかと恐れる。
さてさて、それでは、私の脈絡のつかない、提出されなかった論文を始めよう。題して「戦後官僚の起源」。
1.はじめに
祖母は私にことあるごとに「ロシア人は信用してはならない」と言い続けていた。祖母は、明治生まれの女学校卒で、英単語が会話に出てくるような知性と品性を感じる女性であった。そういう祖母がなんの根拠もなしに「信じられない」と言うとは思われなかった。これは、少年時代以来の私の謎であった。
米国に留学する機会があり、2年ほどワシントンD.C.で勉強した。ロシア人の同年代の留学生と知り合い、家族ぐるみでおつきあいさせていただいた。お互いの家を訪問しあったりもした。奥様の郷土料理でペリメニというのをごちそうになったのだが、どうみても日本の水餃子であった。嬌が乗ると彼はギターを取り出していろいろな歌を歌ってくれた。ロシア語の「百万本のバラ」はいまも耳に残っている。ロシア人とは案外共有しているものがあることを実感したものだ。このロシアの友達とはいまもわずかながらやりとりをしている。
彼とつきあっている限り、祖母から与えられた言葉は解けなかった。
祖母の謎を解くきっかけになったのは、一冊の本との出会いであった。どなただったか、知人に勧められて読んだ。
「大東亜戦争とスターリンの謀略―戦争と共産主義」
三田村 武夫 (著) 出版社: 自由社 (1987/01)
- 作者: 三田村武夫
- 出版社/メーカー: 自由社
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戦前に内務省の勤務経験を持ち、実際にゾルゲ事件の調査にかかわった三田村武夫氏が、自分の体験によって知りえた情報を含めて、尾崎秀実を中心とする第二次世界大戦前の共産主義者、革命家たちの謀略について分析している。
以前から、ドイツとの同盟まで結びロシアに備える「北進」戦略をあれだけ戦前の日本は準備しながら、なぜ「南進」してしまったのか不思議でならなかった。この「南進」の決定には、ゾルゲや尾崎ら当時の革命ソビエトのコミンテルンの諜報機関の暗躍があった。尾崎などは時の内閣の嘱託であり、言論界にもそれなりの影響力を持っていた。尾崎の証言を含め、実に納得できる当時の事情が本書において議論されている。
謀略家というものは、本来の革命の実現のために、まったく正反対のイデオロギーを表面的には標榜することも、国を裏切り、親兄弟や妻子にまでも虚偽を押し通すことができるのだと、尾崎によってはじめて知った。現代のぬるま湯の時代に生きる私には想像を絶する強靭な意志があった。
本書が異様な迫力をもって私に迫ってきたのは尾崎らと同時代を生きた著者が自分の経験を基に敵対する立場でありながらシンパシーをもって書いている点であった。また、その使命感に打たれた。そしてまた、その場にたちあった者ののみが共有する危機意識が強く現れている。もうひとつの理由があるのだが、それはあとで書く。
本書において引用されているコミンテルンの綱領を読み、ほんとうに共産主義が危険であると感じた。長くなるが昭和3年(1928年)のコミンテルン第六回大会で決議された綱領の一部を引用する。
「
帝国主義戦争が勃発した場合に於ける共産主義者の政治綱領は、
(1)自国政府の敗北を助成すること。
(2)帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること。
(3)民主的な方法による正義の平和は到底不可能なるがゆえに、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。
である。
帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめることは、大衆の革命的前進を意味するものなるが故に、この革命的前進を阻止する所謂「戦争防止」運動は之を拒否しなければならない。また大衆の革命的前進と関係なく又はその発展を妨害するような個人的行動又はプチ・ブルの提唱する戦争防止運動も拒絶しなければならぬ。共産主義者は国際ブルジョワジー覆滅の為にする革命のみが戦争防止の唯一の手段であることを大衆に知らしめねばならない。
」このコミンテルン綱領から尾崎らが導き出したと想われる行動方針は、日本を世界大戦に巻き込み、かつそれを出来る限り長期化させ、「北進」はさせないということだ。そして、この目的の達成のためには、企画院事件などにかかわる官僚を巻き込むばかりでなく、極右ともいえる軍部の青年将校とも手を結ぶことを辞さなかった。これらの青年将校達の思想的バックグラウンドを与えた北一輝の「日本改造法案」を引用する。
「
一、天皇を奉じて速に国家改造の根基を完うするために、三年間憲法を停止し、両院を解散し、全国に戒厳令を布く、そのためにはクーデターを断固する。
一、戒厳令の施行中、普通選挙による国家改造議会を招集、比の国家改造議会は天皇の宣布したる国家改造の根本方針を討議することを得ず。
一、国民一般の所有すべき私有財産は百万円を越えることを得ず。
(中略)
一、労働省を設け、労働賃金は自由契約、労働時間は八時間とし、日曜、祭日は公休、賃金を支給すること、ストライキは別に法律に定めるところにより労働省これを裁決す。
一、婦人の労働は男子と共に自由にして平等なり。
一、国民教育の機関(ママ)を満六歳より満十六歳迄の十ヵ年とし、男女を同一に教育し、エスペラントを課し、第二国語とす。
」「エクストリームス・ミート(極端の両端は合う)」とは、イギリスの格言だそうだが、右に走った北一輝らも社会主義に到達するというのが、いまの私にはどうにも理解しがたい。北一輝らは、その心性からして本来「見えない」、「名前をもたない」ある意味茫洋とした中心を持つ日本人において、一神教的な天皇制を仮定したのだ。それは、ユダヤの過酷な神の元に、すべての人間が平等であると信じるように、天皇のもとでの万民の平等が当時の資本家や政治家の行き過ぎを正す唯一の思想だと発見したのだ。現代の我々からみれば、財産の制限や革命という非常に過激な項目を除けば、労働時間の問題などあまり違和感がない。時代の流れは確かに北をはじめとする革命家たちの思想の元に進んでいるようにすら思える。革命家たちの末裔がだれであったかについては、後で触れたい。
ひとつ、意外であったのは、近衛文麿と直接に言葉を交わしたという筆者の印象が、「インテリで人好きのする理解力のある人物」だったということだ。これまで近衛といえば昭和天皇への報告を翻すような意志薄弱な人物だと想っていた。近衛の底にはなにがあったのか、知れないところがある。たとえば、この昭和20年の奏上だ。
「
翻って国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件具備せられゆく観有之候、すなはち生活の窮乏、労働者発言度の増大、英米に対する敵愾心の昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、これに便乗する新官僚の運動、およびこれを背後より操りつゝある左翼分子の暗躍に御座候。
これを取り巻く一部官僚および民間有志は(これを右翼といふも可、左翼といふも可なり、いわゆる右翼は国体の衣を着けた共産主義者なり)意識的に共産革命まで引きずらんとする意図を包蔵しおり、無知単純なる軍人これに踊らされたりと見て大過なしと存候。
」こう奏上しながらも、三田村氏の著作によれば尾崎に「操作」され、もっとも踊らされた可能性が高いのが近衛である。
拡大解釈にすぎるのかもしれないが、この近衛にしろ、青年将校たちにしろ、尾崎の周りの人物達にしろ、理想主義的であるということがいかに危険なことかと実感した。これらの一群の人々は、世の矛盾に発奮し、その改革に燃えて行動を起したにせよ、それは民主主義をこの国において廃れさせ、コミンテルン綱領に基づく行動を助長させた。
近衛の奏上を待つまでもなく、この戦争で本当に勝ったのは誰なのかという疑問がいまだ私の胸から消えることがない。もし、尾崎を中心とした桜会、昭和会のメンバーが目指した理想と、彼らとは全く反対のイデオロギーからスタートした北一輝の「日本改造法案」とが重なるのであれば、それは実は戦後実現したと言えるのではないか?そして、その状態を誰が実現したのかを考えるとき愕然とする。
逆に革命家たちがなぜそこまでの謀略に乗じなければならなかったを考える時に、いかに当時の不平等、貧富の格差の問題が大きかったかに思い至る。当時、いかに特権を持つもの、富めるものが、他者への共感性をもっていなかったか、自ら社会を変革する力を失っていたかを感じる。それはまた現代の我々に直結する問題である。
本書の最後に三田村氏はこう我々に問いかけている。
「
第二、革命への客観的、主観的条件成熟と同時に一挙にプロレタリア革命に突入する。ただし、これは必ずしもいわゆる武装法規の暴力革命のみを意味しない。客観的条件の正確なる分析判断に従って戦術的に決定する。(中略)
国民はー人民はープログラムの後段の途を選ぶか、それとも二十年間目隠しされて来たくらやみの途に憤慨し、覚醒して、別の新しい、明るい、自由な道を選ぶか、それは自由な人間に与えられた基本的権利だ。
」私たちが私たち自身の主人であるという民主主義の理念にたつまでもなく、自国民以外革命家たちの謀略で私たちの運命を決定されることを、断じて拒否しなければならない。ここを守れずして、なんの民主主義があるかと、私は断じたい。
3.成功した革命としての2.26事件
祖母の言葉、三田村氏のメッセージ、そして、革命家たちの末裔とは誰かは考えていた。ヒントは、戦後の政策において誰が最も利益を得たかではないか、それは、地価があがった方々ではないかとぼんやり考えていた。とすれば、地価を高く維持しようという意思をもった執政者がいたことになる。もし、存在するとすれば、そのような執政者とは誰なのか?考えながら、都内を歩いていた時、超一等地にたつピカピカの高層ビルを見つけた。ああ、そうなのかもしれないと想った。
やはり、この物語の始まりも北一輝からであろう。
当時、肥大化した資本家、世襲的政治家が権力と富を独占しているように一般大衆レベルでは考えられていた。一方で、理想主義的だった若手官僚と軍人たちは、自分達のふるさとである地方の困窮を救わなくてはならないという切実な危機感をもっていた。前述のように、彼らは資本主義のゆがみを感じ、アンチテーゼとしてロシアの社会主義的な理想に親近感を持ったのかもしれない。尾崎秀実がどれくらいこうした流れと共鳴したのかは分からない。わかるのは、当時の世論を背に2.26事件というクーデターが起こり、同様に盛り上がる世論によって日本は北進せずに南進した。そして、全体主義的な動員をかけた戦争に敗れ、GHQの統治が始まった。GHQの改革は、税制から、農地改革、財閥の解体、などにおよび奇妙なくらい北一輝や戦前の若手官僚と軍人が主張していた方向への政策が打ち出され、実行された。
2.26事件は失敗したのでなく、成功したクーデターだったのだという立場に立つと歴史を見る目が変わる。敗戦をあえて視野から外して、2.26以後の歴史を連続したものだという視点で歴史を見ると、いままでとは違う歴史が見えてくる。その歴史を一言でいえば、「士農工商」社会の再来ではないだろうか?人口のほんのコンマ数パーセントの世襲、閨閥の政治家が諸藩の「大名」にあたる。そして、人口の2%あまり、260万人の中央官僚が武「士」階級となる。すでに就業人口の6%を切った「農」階級、農業従事者が地方では地主階級として力を持つことは明らかだ。財閥解体後に、官僚と共に力をつけて、日本を支える伝統的製造業者たちは「工」階級の末裔だろうか?そして、一番下の「商」階級以下にあたり、政治的な力もなく、まとまった土地も持たない、現代の無産階級とも言えるのが、自分の才能と努力を頼みに額に汗して働くサラリーマンであろう。
ごく少数の例外を除き、2.26事件以来こうした「士農工商」構造の権力構造を超えて、日本の中枢に入る力を手に入れた者が日本にいるのだろうか?ごくごく一部の商工業者が予想外に進歩したことを除けば、財閥はとうの昔にサラリーマン集団になり、門閥政治家たちは実務の力を失い、2.26当時の若手官僚と若手軍人が理想とした社会主義的な社会の姿が戦後現実のものになっただけではないのか?
「自」民党も、実は「農」民党にすぎないのだと考えれば、これまで官僚階級と結びつき、戦後の政治を牛耳って来れた理由が理解できる。社会主義でもなく、自由主義でも、資本主義でもなく、「農」本主義の国として戦後の歴史は推移したのではないか?
こうした視点をとると、「亡国マンション」著者の平松朝彦の、戦後の都市計画、金融政策などが総合的に地価の上昇への恣意的な志向があったのだという主張を理解できる。たとえば、都市計画法における市街化調整区域という制度がある。基本的に調整区域の土地は、「農」民だけが所有し、建築物を建てられる地域を設定することができる。現在では人口の数パーセントでしかない農業従事者が国土の利用可能な土地の7割、8割を独占的している。税制上も、狭小だが評価額の高い宅地を相続していくのは至難のわざだが、広大な農地は農業振興区域などの制度によりほぼ何代でも相続可能だ。金融政策上も、戦前の借家主体の住宅政策から持ち家助長政策に転換したといえる。土地の希少性をつりあげ、国民の持ち家志向を助長することにより、地価を上昇さえ、土地所有者に圧倒的に有利になってきた。
「成功した革命としての2.26事件」から流れ出たのかもしれない戦後の歴史を私は否定しない。戦前から戦後の様々な状況を考えれば、日本がソビエトの指導を受けるような事態を回避するためには、政府与党と官僚が社会主義政策を実施しなければならなかった事情もむしろ納得できる。ただ、これからを担う後継者の誰も何故いまの姿があるのかという歴史認識を持たずに現在の日本の状況が推移するなら、これからますます大きな矛盾を日本人が抱え、解決できない状態に陥ることを恐れる。
4.口伝えの歴史
祖母の言葉の謎を解こうとこころがけていたら、とんでもないところに出てしまったというのが実感だ。学校でも、マスコミでも取り上げられない近代の歴史の底にあるうねりを感じる。歴史とは、公的な歴史がすべてではない。口から口へ伝えられた言葉の奥にある祖母の戦争の体験、歴史が祖母に落とした影を見る。親から子へ伝えらえる歴史にこそ隠された真実はあり、そこに自覚的にならなければ私たちが私たちの主人である民主主義など簡単崩壊してしまうだろう。
前節の冒頭のビルの名前は明かさない。ただ、最近海外でも”The”をつけて呼ばれるほど強力な機関でありつづけていると聞いた。*1
■ 参考文献等
・「尾崎秀實〜 日中和平を妨げたソ連の魔手」 @ 「国際派日本人養成講座」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog263.html
・「ゾルゲ事件」
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-44-3.html
・一般人口統計 −人口統計資料集(2005年版)−労働力
http://www.ipss.go.jp/syoushika/tohkei/Data/Popular2005/08-09.htm
・ 農業就業人口
http://www.stat.go.jp/data/nihon/zuhyou/n0700100.xls
・「大東亜戦争とスターリンの謀略―戦争と共産主義」
三田村 武夫 (著) 出版社: 自由社 (1987/01)
・「戦後マスコミ回遊記」
柴田 秀利 (著) 出版社: 中央公論社 (1985/12)
・「亡国マンション」
平松 朝彦 (著) (光文社ペーパーバックス)
・ 「敗戦を抱きしめて」(上・下)
ジョン ダワー (著), 三浦 陽一 (翻訳), 高杉 忠明 (翻訳)
岩波書店 増補版版 (2004/02)
■同感です。
でもそういった敗北、くやしさを抱きしめて(噛み殺して)日本は復興していったんだ
ジョン・ダワー、2004(1999)、「敗北を抱きしめて(上)」: muse-A-muse 2nd
■そうおっしゃってくださって安心しました。
私もかつて取材した立場でいうと、毎年8月に中国と韓国にしか取材しないのは、他の国では人々は日本軍に敵意をもっていないから「ネタにならない」のだ。この二国がいまだに日帝を糾弾するのは内政的な要請によるもので、そういう事情のない台湾では日本のインフラ建設は感謝されている。首相も、そろそろ「封印」を解いて客観的事実を検証してもいいのではないか。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/64997180aceb68c1cc4902d31e47e594