HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

文章がかけないということは、文章を読めないということ

文章というのは、きちんと書いてあることを書いてあるとおりに素直に読めなければならない。なぜなら、ほんのひとつの単語が入っているかいないか、「以外」かどうかで意味が全く違ってしまうからだ。逆を言えば、そこまで論理的な構成を考えた文章をかけなければいけない。ここのブログの文章そのもののように、考えなしにだらだら書いてある文章では言いたいことも、論理的な構成も伝わらないということだ。

反省...orz

中学までの義務教育において鑑賞用の文章よりも、論理的な文章の読み方、書き方、特に法文についての基礎などをしっかりと学ばせるべきだと真剣に思う。米国のlogicという科目だ。成熟社会では、法体系が擬似的な生態系の環境となる。現代ではこれこそが義務教育だと思う。

あ、いや、自分がこれだけ勉強していきたのにいまだに文章が読めないことに対するlamentにすぎないのだけどね。