はてぶで話題になっていた電車の吊り革問題。
これを通勤の問題として捉えれば、確実に男女ともにユニバーサルに働かなくてはならない日本としてはこうした問題の解決が非常に大切。
この社会のものが、「平均的な健常者男性」に合わせて作られているという説から見えてくる様々なバリア「つり革も届かない」「逆に集合住宅のキッチンつらい」 - Togetterb.hatena.ne.jpこういう女性側とかの目線をきちんと政策におりこんでいくところが、これからの日本につながるのだろうな。めんどうくさがらないことが大事。 <a href="https://hpo.hatenablog.com/entry/20130419/1366405291" target="_blank" rel="noopener nofollow">https://hpo.hatenablog.com/entry/20130419/1366405291</a>
2019/02/12 15:00
翻ってこれを工業デザイン等で想定されている標準的ヒューマンスケールの問題として捉えるべきである。
建築の近代的なヒューマンスケールとしてはコルビジェの「モデュロール」が存在する。
https://matome.naver.jp/odai/2148121010289831501
これは想定上の183cmあまりの人体を黄金比で分割することで、立つ、座る、寝る、歩く等の動作に必要なヒューマンスケールを割り出したもの。建築関係者にとっては非常に美しいと感じられるのだが、そもそも欧州と日本では身体の大きさの差があるし、分割された理想的な人体のスケールと現実は異なる。更に、人間側の差も激しい。
扉のサイズひとつとっても人によって変えることはできない。一意に決めるしかない。しかも、建築的に美しくなければならない。この矛盾を建築の仕事をしていると常に感じる。
槇先生の素晴らしいお話を聞きたかった。「ひとりのためのパブリックスペース」をデザインできるかと。これこそがユニバーサルなモデュロールなのだろう。
パブリックスペースというと、大勢の人が集まる場所を想定しがちだが、ひとりのためのパブリックスペースというのもある。スーラが描いたパリの郊外の絵がある。画面にはたくさんに人がいるが、ひとりひとり違うものを見ている。この絵では、人は常にどこか孤独であるということが示されている。僕はスパイラル(1985 年)のエスプラナードに都市をひとりで眺める椅子を置いた。いつも誰かが座っている。
第1回 槇文彦氏「建築設計のなかで人間とは何かを考える」|工学院大学建築学部
三原市芸術センター(2007年)。こうしたオーディトリアムのホワイエは通常、大きな空間でつくる。ここは小さな都市でもあるので、ホワイエを小さくつくって、天井高さも抑えた。オープニングのセレモニーで出かけたら、子供を連れたお母さんがこの建物を見ていない。そのことがうれしかった(笑)。自然なスケールをもっている証だろう。ここでは結婚式の披露宴も行われた。