HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

進化の最小単位は家族

進化について学び続け、考え続けている。進化とは「群」においておこる現象であって「個体」が単位でない。

1.「生物個体群の性質」であり、「個体の発生上の変化」ではない。
2. 本来的には「世代を経るにつれて変化する現象」であり、「進化」自体には高等になるとか、複雑になるとか、価値観、方向性を含まない。
3. 「個体群内の遺伝子頻度の変化として定義されることもある」とあるように、形態の変化であるよりも一定の「群」の中での内在的な変化も含む。

進化とはなにか? - HPO機密日誌

では、この「群」とはなにをもって他と区別されるのか?間違いないなくひとつは生息地だろう。現代の科学においては評価されていないようだが、私は子供の頃今西錦司先生の「棲み分け」理論を聞いて納得した。それは、私の中の「麗しい澤」概念と結びつく。

今西錦司氏の『棲み分け進化論』は、「進化とは、種社会の棲み分けの密度化であり、個体から始まるのではなく、種社会を構成している種個体の全体が、変わるべきときがきたら、皆一斉に変わるのだ。と言う表現で、ある種から新しい種が生まれても、従来種は駆逐されることなく、新しい種と共存してゆくもので、その発生事態も突然変異などによる偶発的なものでなく、環境の変化などによって、時期が来たら複数の個体が、あたかも化学反応のように、同時多発的に変化してゆく現象での進化」

棲み分け理論って結局のところ何ですか? : とみ新蔵 ブログ

高校の頃、学校に額がかけてあった。

麗澤とは太陽天に懸かりて万物を恵み潤すの義や
創立者の書かれた「易経」からの引用だということだった。三年間毎日読んではいた。意味もわからず、ただ目には入っていた。高校時代、別に特に悩んでいたわけでもなく、人生に絶望していたわけでもない。かと言って、最高にハイな高校生活でもなかった。たんたんと高校生活が過ぎて行っていた。そんなある日、いつものようにこの額を見て、突然太陽の恵みによって、文字通り麗しい澤のようなところで生かされていると直感した。額の言葉通り、太陽が空にさんさんと輝いて、日の光の恵みのもと、澤に流れる川のほとりでアメンボや、つぐみや、リスなどが、調和して生きている、生かされている情景を「体験」した。

「生きがいについて」読了 - HPO機密日誌

トンボでも、キツツキでも、「谷」という生息の条件が穏やかに変化していく環境の中でそれぞれの生き物がそれぞれの「地位」を占めて生きていくイメージをこの時にもった。食べたり、食べられたりしながら、連鎖し、それぞれの種の「地位」において生殖していく。そして、その「群」の中で蓄積された独特の変化が新しい進化につながるのだと。

これが人間だったらどうなるのかを展開したのが間違いなくマット・リドレーの「進化は万能」となる。「進化は万能」の中で、進化の「群」単位として国、地域社会、会社、集団内の概念、ああ、そう、「神の進化」も扱っているので人類全体をも「群」として扱っている。いずれにせよ人類における最小単位は個人となるのだが、いくら天才がいても父親と母親がいなくては生まれない。言語も習うことはない。その個人が「群」を形成する最小単位は家族ではないかという想いが保守主義者の私から離れない。

まあ、自分は果たしてよい「群」を子供達に対して形成してあげることができたか反省ばかりではある。いろいろ考えることはあるがいまはこの想いをただ記しておきたい。ちなみに、「進化の最小単位は家族」とここで敢えて書くのは、逆に言えば「家族」を形成しなければ自分という「種」の遺伝的、文化的ミームをさらなる進化に繋げられないことを理解していない人が多いからだと最後まで来て思い出した。