HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

進化とはなにか?

「進化は万能である」を読めば読むほどマット・リドレーの「一般進化」とはなにか考えざるを得ない。

進化は万能である──人類・テクノロジー・宇宙の未来 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

進化は万能である──人類・テクノロジー・宇宙の未来 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

生物学上の進化の定義は数々の議論の末、現在では明確になっている。

進化とは、生物個体群の性質が、世代を経るにつれて変化する現象である[2][1]。また、その背景にある遺伝的変化を重視し、個体群内の遺伝子頻度の変化として定義されることもある[3][4]。この定義により、成長や変態のような個体の発生上の変化は進化に含まれない[1][2]。

進化 - Wikipedia

くどいようだがまとめると、以下の三点が定義の中で重要。

  1. 「生物個体群の性質」であり、「個体の発生上の変化」ではない。
  2. 本来的には「世代を経るにつれて変化する現象」であり、「進化」自体には高等になるとか、複雑になるとか、価値観、方向性を含まない。
  3. 「個体群内の遺伝子頻度の変化として定義されることもある」とあるように、形態の変化であるよりも一定の「群」の中での内在的な変化も含む。

マット・リドレーは、この概念を以下のように語っている(要約)。

生物学以外の分野についても、この進化論の考えは当てはまるのではないか。人間社会の制度や組織、生産、習慣における変化は、特定の誰かの指示でそうなったのではなく、自然発生的な勢いにもとづくものだ。つまり大局的に見れば、あらゆる人間の文化も、固有のゴールや目的に向かってまっすぐ進んできたのではなく、主に試行錯誤を経て進んできたといえる。

そうした特徴は、まさに進化のもつ特徴そのものである。私たちは、誰かの行いによって社会が変化してきたと教えられ育ってきたが、実際には道徳からテクノロジー、金銭から宗教にいたるまで、すべてのものが「創造」されるのではなく「進化」することによって変わってきているのである。

ダーウィンの進化論は、生物学に限定されているという意味で、さしずめ「特殊進化理論」ということができるだろう。特殊相対性理論を拡張して一般相対性理論を生み出したアインシュタインに倣い、この理論を「一般進化理論」と名づけることにしたい。

進化は万能である | 本の要約サイト flier(フライヤー)

科学技術、政治、宗教、インターネットなどでに当てはめると、以下の進化の原則が浮かび上がる。

  1. 「進化」の前提である「変化」を一定の「群」の中で伝達、共有できる仕組みがある。
  2. 科学技術、政治、宗教、インターネットなど科学者・哲学者、政治思想家、神、デザイナー・アーキテクトなど「誰か」が一定の方向にロードマップを示す存在*1を仮定しがちだがそれは間違い。進化の方向を定めた特定の人物、存在はない。
  3. 大きな「進化」の変化がある前には、その「進化」が可能となる知見、技術、潜在的要素が必ず「群」の中で準備されている。

大概の場合、私達の視点は1.の「群」の中にある。なかなかその「外」から見ることができない。進化とは、実は「暗黙知」にその根がある。本書を読んでいてそう思わざるを得なかった。これに関連してフリーライダーや、言語変化の問題も論じたくなるが本題から外れるので論じない。

hpo.hatenablog.com

2.の「超越的存在」の仮定はあまりに広く、姿を隠している。マット・リドレーは科学者の信念と呼べるような「真理」といったものの存在すら否定している。ニュートンを引くまでもなく、中世、近代の科学においては「神の栄光」を明らかにするために科学的知見は存在した。この「誰か」の存在の仮定はあまりに深く、隠されている。

3.は、「暗黙知」の問題と合わせて、アインシュタインのような断絶を乗り越えたと思われるような科学的進化、偉大な政治家が果たした政治体制の進化など、「神」や「真理」でなくとも特定の人物の存在と「進化」を私達は結びつけがちだ。しかし、ダーウィンの進化論自体がウォレスが同様の考えを発表しようとして、ダーウィンが出版したことに象徴されるように、社会的な知見、行動としてその「群」の中に十分に内在している。

こうしたことを考えると、人間は「妄想」によって日々の生活、政治的行動をしているのだという結論に達する。ユバリの考え方だ。

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まあ、まずは読了してから論じたい。

*1:マット・リドレーは、これは「上からひっぱるもの」という意味で「スカフック」と呼んでいる。