HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

戦い続けること

ごくごくおおざっぱだが、国に防衛は必須だと、防衛のためには戦いつづける覚悟が必要だという当たり前の話しをある方と議論した。自分の備忘のために、まとめられる限りまとめておく。

現下に進んでいるウクライナとロシアの対立を例に出すまでもなく、「リアル」な国家間の武力の誇示はますますあからさまになっていっている。例えば、ウォールストリート・ジャーナルの社説はずいぶんと危機感をあおっている。米国のオバマ大統領の宥和的な態度が今回の事態を招いたとする指摘に共感する。

 冷徹なパワーポリティクスの世界において、ウクライナオバマ氏がシリア内戦で言葉通りに行動しなかったことの犠牲者となった。オバマ氏は、アサド政権が化学兵器を使えば「一線を越えた」とみなすと警告したにもかかわらず、武力行使に踏み切らなかった。アジアや中東の米国の敵対国や同盟国は、オバマ大統領の対応を注視するだろう。中国は尖閣諸島を狙っており、イランは核協議で米国の弱さを計算に入れようとしている。

【社説】プーチン・ロシア大統領、ウクライナに「宣戦布告」 - WSJ.com

今回のウクライナへのロシア介入の背景に、ウクライナ徴兵制をやめたことによる軍事プレゼンスの低下があると考えていいだろう。防衛を志願制の自衛隊任せにしている日本にとって、ひとごとではない。

最近の二つの出来事が、実戦力としてのウクライナ軍に止めを刺すことになった。それは、ロシアで2008年に始まった軍改革と、ウクライナで昨年行われた、徴兵制から契約制への移行だ。前者では、衰退するウクライナ軍を尻目に、ロシアでは、国防費が大幅増となり、軍に対するコンセプトが一変した。後者では、徴兵制から志願兵による契約制に移行した結果、例えば、クリミアでは、西部ウクライナリヴィウの兵士ではなく、地元のクリミア住民が軍に勤務することになった。彼らは、ロシア人と戦う気などさらさらない

ロシア・ウクライナ戦争は起きるか | ロシアNOW

ものごとには、常に裏側がある。経済学で言えば、外部性というのだろうか。平和の裏側には、武力がある。武力を維持更新する努力がある。各国間の軍事バランスと取る外交交渉、政治がある。少なくとも世界の「大国」の間で、旧ソ連崩壊後各国の平和が維持できていたのは、米国が「一極」であり続けられたからだ。ところが、「一極」であったのは、すでに過去形となってしまった。リーマンショックと政治的な状況で文字通り自縄自縛のレームダックと化してしまったオバマ政権はその力の限界を見られている。

これまた人ごとではない。ましてやの日本だ。日本もロシアと国境を接していることを忘れてはならない。先のウォール・ストリート・ジャーナルに従えば、ロシアがクリミアを掌握しようとするように、「中国は尖閣諸島を狙って」いる。

歴史認識の問題に戻れば、近代の市民の政治参加と国民皆兵は表裏一体だった。欧州の政治に詳しい方から聞いた耳学問に過ぎないが、戦うことと市民の政治参加の政治は不可分だ。ギリシア市民は、ポリスという自由民同士の絆のある都市国家のために命を惜しまず闘う覚悟ができていたからこそ、選挙などの市民権を持っていた。中世において、王と貴族だけが闘う覚悟と準備を持っていたために政治を独占していた。ナポレオン以来、国民軍が欧州を圧倒する力があることが明らかになったために、国民が「俺も闘うから、俺にも政治的な力をよこせ」と主張することとなった。このため、王政と貴族が後退した。この意味で、国民皆兵制をやめても戦い続ける米国とロシアは、国民の意思と国の意思が全く分離している「帝国」である。ちなみに、帝国とは武力を持って経済的な繁栄の果実をもぎ取ろうとする国家だと私は考える。

この米国が長期的に後退していくというパワーバランスの中で、かつ日本憲法の下において、いかに日本は自国を防衛しうるか?平和憲法下の民主主義によって、永年国民があまやかされた後では、戦える国を作るのは容易ではない。戦わずに国を守れる方策をこのごにおよんでも正気で言える人が聞いたらすがりたいくらいの気持ちだ。しかし、現実の各国のパワーポリティクスはかなり厳しい方向に向かっている。

ひとつは、再度国民皆兵制を取り入れるという選択肢。「国民自身が国民の君主」である現在の日本の政治体制、「平和」憲法下では非常に難しいだろう。全ての国民に国を守る気概があるとはとても思えない。国民が国民の主であるという民主主義は、平和時においてずるずると国民自身を甘やかせ続けていく。

あるいは、中国でも、ロシアでも、蹂躙されるままになるのか?周辺国と国内の少数民族への扱いを見る限り、どちらも頼ってしまえば、国民は現在の幸福のレベルを相当に落とさなくてはならなくなるのは、明白であろう。

このまま米国が長期的に衰退し、民主主義が後退し、中国、ロシアといった独裁型の国家が繁栄していけば、日本にも独裁的な大統領制が生まれかねない。すでに東欧、中欧ではその傾向が見られる。ちなみに、民主党の全盛時代に、ある国会議員が「中国の発展を見ろ。独裁型開発こそがこれからの成長モデルだ」と発言したのをこの耳で聞いた。背筋が寒かった。

国民皆兵でもなく、純粋な民主主義でもなく、戦いを忘れない国家をつくるためには、再度階級社会にもどるしかないだろうというのが、この議論の結論であった。国を守る意思を持つ人々が国を守るしかない。守られる人々と、守る意思と力を持つ人々の間での階級が生まれるのは、まあある意味江戸時代への時計の針を一世紀と半分くらい戻すことに過ぎない。

民主主義という政治体制は、参政権を持つ「国民」によって万民が万民の主になるという望ましくない副作用を生む。なぜなら、永遠に国民は国民を甘やかし続けるからだ。何人も、自分自身の裁判官たり得ない。特に、お互いに権利の行使を見張り合う状態であれば、厳しく施行することは排除され、どこまでもお互いのために甘くなっていく。経済政策がこの最たるものだと私は思う。結果として、軍事予算や、福利厚生費用をはるかに超える巨額の経済、金融政策をとらざるを得なくなったり、GDPの数倍に匹敵する国家債務を背負うことになる。

これに比べれば、軍事政権ははるかに安上がりかもしれない。自分の命と参政権を天秤にかければ、自分の命の方が重いと思えば、永遠のシビリアンでいればいい。真剣に国と自分の将来を憂えれば、軍隊に入ればいい。

軍事政権という安価な解決 - HPO機密日誌

なんて思考していると、三島由紀夫になっちゃいそうだ。