HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

「人望の研究」

こんなあほなブログ書いているけど、昼間の顔は経営者、リーダー。失敗続きで、自分の人徳のなさに涙する日もある。向かっても、向かっても、うっちゃりを食らわされて涙する日もある。というわけで、山本七平のリーダー論の初歩の初歩、「人望の研究」を読んでみた。

山本七平は、無党派市民連合の分裂を冒頭で一刀両断に分析している。革新的で、現代的な政党を目指したはずが、リーダーたるべき人の「人望のなさ」によって空中分解してしまったと。「進歩的」であったはずの人々が集まったはずなのに、男女のなさぬ仲の問題や、リーダーの謙虚さが問われる場面で、自分が自分がと主張するという古典的な徳目の問題が多発したと。しかも、世間の目だけでなく互いを批判するにもまた古典的な徳目を用いたと。

逆に、誰もが平等で、文字通り「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」組織をイスラエルの民主主義(?)国歌の中で構成しているキブツを対照にあげる。平等社会であるのに、いや、平等社会であるが故に古典的な徳目を満たしたリーダーが必要とされるのだと。組織の全体としての力をあげるリーダーシップは、そのキブツの資産を増やし、みんなの生活を豊かにする。私も数十年前に一度訪れたことがあるが、私有財産であるとは思えないほど、ホテルや、倉庫、レストランなど、インフラが充実していた。まして、そのまたほんの数十年前になんの資産もないところからスタートした街であるとは思えなかった。そう、80年代後半の時点でキブツは十分な街であった。

1909年帝政ロシアの迫害を逃れた若いユダヤ人男女の一群がパレスチナに渡り、最初の共同村デガニアをガリラヤ湖南岸に設立したのがキブツの始まりである。彼らは、自分たちの国家建設の夢を実現させようと願って、生産的自力労働、集団責任、身分の平等、機会均等という4大原則に基づく集団生活を始め、土地を手に入れ開墾していった。

キブツ - Wikipedia

サブタイトルの「二人以上の部下を持つ人のために」にあるように、二人以上の人間が集まるところ、必ずよきリーダーシップは必要とされる。1+1=2にしかならないなら、組織など必要がない。1+1>2にできるのが、組織のすばらしいところ。n人の組織で1+1+・・・・・+1=1×n×100位の成果は案外可能であったりする。こういうときに、すばらしいリーダーシップが発揮されたと言える。

この不可思議なリーダーシップという力をいかに身につけるか?それは、学ぶことができると洋の東西を問わず、古典は教えてくれる。近思録にいわく、と山本は要約している。

「聖人にならって聖人にいたることができるでしょうか」
「できる」
「そのための要点は・・・」
「ある」
「お教え願いたいのですが」
「一が要点だ。一とは無欲だ。無欲になると心が静虚になるから、外物に対して心が正しく動く。また、心が静虚なら知が明かになり、知が明かだと理に通じうる。動直だと私心が生ぜず、私心がなければ事に周く心が及ぶ。このように『明』『通』『公』『溥』であれば聖人に近づけるといえよう」

私はここに古典の徳はつきると信じる。これだけでいい。ここに至るには七情といわれる「喜・怒・哀・懼(おそれ)・愛・悪(にくしみ)・欲」から離れること。リーダーの基本的な資格はここに尽きると私は想う。山本七平はさまざまなリーダーシップを論じる書籍でなんども「九徳」について書いているが、ちょっとしつこい。九徳は結果としてついてくるだけだ。静虚動直なリーダーシップを涵養すれば、結果として九徳に至る。それだけだ。

一 寛にして栗(りつ)     寛大だが、しまりがある
二 柔にして立(りつ)     柔和だが、事が処理できる
三 愿にして恭         まじめだが丁寧で、つっけんどんでない
四 乱にして敬         事を治める能力があるが、慎み深い
五 擾(じょう)にして毅    おとなしいが、内が強い
六 直(ちょく)にして温    正直・率直だが、温和
七 簡にして廉         おおまかだが、しっかりしている
八 剛にして塞         剛健だが、内も充実
九 彊(きょう)にして義    強勇だが、義しい(ただしい)

九徳 - 備忘録 - Yahoo!ブログ

それでも、リーダーである限り数限りない矛盾に合う。強くなければ組織を率いていけないし、人から懼れられるだけでは組織の柔軟性を失う。倹約家でなければ財務を収められないが、せこせこしていては仲間がついてこない。組織を経営している限り、向かっても、向かっても、向かっても、乗り越えられない壁にぶち当たる。これをどう乗り越えるのか?なにをしてでも乗り越えるのか、自分と仲間と顧客の成長を願って矛盾の壁を乗り越える解決を示すのか、大きく結果は違う。真剣に向き合い続けるとき、あれだけ不可能と思えた壁が向こうからぐっと開いてくれたりする。こういうときに、私と仲間と顧客は大いに人間として成長できる。こういう壁を乗り越える達成感のために、経営者なんてものをやっているといっても過言でははない。特に、目に見えて仲間が成長したと感じることほど、経営者のよろこびはない。

この矛盾を乗り越える知恵を、私は「中」であり、「中庸」と古典は教えてくれていると思う。自分が自分がと主張していも、この矛盾は解けない。相手におもねっても、壁は開かない。絶対矛盾を解くベストバランスを射貫く姿が「中(あたる)」ではないだろうか。「中」という文字は、四角い箱のような世界観の真ん中を射貫いた時の形だ。