HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

「経済古典は役に立つ」は役に立つ

読了した。これは、まさに官僚や政治家に経済学を初歩から理解させるために書かれた本だ。竹中さんが順を追って、経済学の現代水準の常識的な方策をとれば、いかにいまの日本が苦境をぬけだせるかを書いている。

経済古典は役に立つ (光文社新書)

経済古典は役に立つ (光文社新書)

あとがきからぬきがきさせていただく。

 翌2009年のダボス会議は、まさにリーマン・ショック直後のタイミングであり、関係者の意見は悲観一色だった。(略)とりわけ、低成長、デフレ、財政赤字など、世界の経済問題をすべて背負い込んだ日本のかじ取りに、世界は注目している。世界は今、存在感の低下した日本を無視しているようでありながら、実は悪循環からどのように抜け出すかに注目している。
 この本で述べたように、多くの経済古典は目の前の問題解決のために書かれた。そこから導き出されるものは多い。
 経済運営の基本は、スミスの指摘のように、やはり市場の”見えざる手”を活用することである。これなくして、経済運営はありえない。同時に、ときにケインズの言うような大胆な政府介入が必要な場合がある。これをためらってはならない。そしてその背後で、つねにイノベーションが必要であり、企業も一国経済も「成功のゆえに失敗する」という教訓を忘れてはならない。まさにシュムペーターの指摘である。また、あくまで自由を基本に、政府が肥大化するリスクを避けるための耐えざる工夫が必要だ。ハイエクフリードマン、ブキャナンの警告である。

私は現在の震災の対応ひとつ見ていても、日本が陥っている「集産主義の悲劇」を特に強調したい。ハイエクの主張だ。

民主主義は、個人が享受できる自由の範囲を拡大させていくのに対し、社会主義はその範囲を狭めていくものでしかない。民主主義は一人一人の人たちすべてを、それぞれかけがえのない存在であるとしてこれに最高の価値を付与するが、これに反して社会主義は、各個人を単なる『将棋の駒』、あるいは『数字』としか見なさい。民主主義と社会主義とがただ一つ共通して持っているのは『平等』という言葉である。だが、この同一の言葉を使用するに際して、両者間に歴然として存在する相違には注意しなければならない。すなわち、民主主義は自由において平等を求めようと刷るのに対して、社会主義は統制と隷属において平等を達成しようとしている、という相違である。

この前後に書かれているハイエクの主張は現在の政治家、官僚、あるいは地域社会において指導的立場の方々は必読だと。社会主義は、理性主義の衣を来て、文字通り人の個性を認めず、数字として扱う事になる。人の自由を認めなくなる。一部の古いド集産主義的ドグマに浸っているひとは自分たちが人に、社会に「やさしい」と想って「活動」しているのだろうが、大きな間違いだ。

このことは社会主義経済計算論争で十分に終止符が打たれている問題だ。

d.hatena.ne.jp

社会の知識は、社会に分散して存在している。特定の誰かによって計画できるものではない。善意であれ、悪意であれ、官僚の支配は集産主義、社会主義にしか結びつかない。

おっと、こんな時間。もう寝る。


■おお

ちょうどいい動画を発見。こうなりたい?