HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

経済学徒はなぜ信頼を裏切るか?

id:pikarrrさんの「経済学は世界を記述しているのではなく世界が経済学をまねている」というエントリーは私の琴線に触れた。

まずは、「繁栄」からすこし引用させていただく。

(交易こそが人を豊かにし、人たるに足る存在にしたという主張を実証した後)だが、交易を実現させるのは人間の優しさという良き性質なのか、それとも、利己心という悪しき性質なのか。かつて、「アダム・スミス問題」と呼ばれるドイツの哲学的難問があった。それによれば、アダム・スミスの二冊の著作のあいだには矛盾があるという。スミスは、一冊では、人間は本能的な思いやりと善良さを与えられていると書きながら、もう一冊では、人間は主に利己心に衝き動かされていると述べているのだ。

もちろんこの二冊とは、「道徳感情論」と「国富論」であり、アダム・スミスは、前者では道徳が人間に本来的にそなわっていると書き、後者では道徳という利他心ではなく、相手の利己心に訴えよと説いているという。

ちょっとぐぐったら出てきた中沢さんという大学の先生の解説が出てきた。経済学的には、すでに解決済みの問題だという。

「同感」とは人間本性に備わる「想像上の立場の交換」を行う能力のことだが、スミスはそれを利己心を克服する感情的原理、道徳的是認・否認を説明する概念へと拡張して用いた(教科書『原点探訪』47ページ)。それゆえ「同感=利他心」と理解して利己心と対立させるのはスミス理解として正しくない。「アダム・スミス問題」はそもそも誤ったスミス理解にもとづいて提起されている。この点を指摘できていれば正解とした。

2004年度 経済学説史(1部・デイタイム)

ちょっとまだ一般の理解から離れている。まして、「繁栄」の著者の主張とつなげるのが難しい。

極東ブログの解説が本書の主張に近い。

アダム・スミスは、人間存在は、それぞれが利己的な要求に駆られつつも、共感(同情)という心的特性を持ち、さらにその共感の抽象的、原理的、遠隔的、理想的な直感によって「公平な観察者」の存在を確信し理解し、そこから内面の倫理基準として持つことで、同時に他者もそれを持つだろうという共感による予期と行動を持つ。そして、それらの、ある種経済学的な均衡の原理が、社会の倫理・道徳を支えていると捉えた。

[書評]アダム・スミス 『道徳感情論』と『国富論』の世界(堂目卓生): 極東ブログ

「共感」があるからこそ、「繁栄」の主題である人が人たるための「交易」が実現した。「繁栄」の著者マット・リドレーの体験によれば、言葉の通じない部族民であって贈り物に対する返礼が行われたという。これは、相手に対する基本的な「共感」は広く人に共有された感情であり、共感なしには交換、そして、交易は生じないことを意味する。

アダム・スミスの「観察」は「世界の記述」に近かった。しかし、そこから「神の見えざる手」の仮定だけを抽出してスタートした経済学は人の行動をすでに変えている。ささいなことかもしれないが、同じ「繁栄」で紹介されていたロバート・フランクの実験は、経済学がいかに経済学徒に影響を与えるかを示している。

人は誰を信頼すべきかを推測するのが驚くほどうまい。経済学者のロバート・フランクらは次のような実験を企画した。ボランティアの被験者が三人で三〇分会話する。そのあと、別々の部屋に送られ、会話のパートナーと「囚人のジレンマ」ゲームをする。

(中略)

ちなみに、人間の利己的本質を教え込まれた経済学専攻の学生は、裏切る率が二倍も高かった!

経済学を学べば学ぶほど、利己的な行動が肯定的に理解され、血肉化されてしまう。すでに、経済学は記述ではなく、役割のモデルを示しているのだ。

そもそも、経済学が追求する効用、効率、成長というものが人の幸せと一致しないとす、経済学者自身が認めている。池田信夫先生はメルマガでこう書いていらっしゃる。

行動経済学の実験によれば、人々の幸福を左右する最大の要因は、金銭ではなく意味です。標準的な経済理論では、労働は「不効用」をもたらすので、働いて賃金をもらうのと何もしないで賃金をもらうのを比べれば、労働者は後者を好むはずですが、実験するとほとんどの人が前者を選びます。自分が何かの役に立っている、あるいは何かの価値を生み出しているという意味が重要なのです。

「オンデマンド経済学講座」(1)幸福は金で買えるのか(サンプル)

つくづく経済学の徒の描く未来像が人の幸せと適合しないと想うのは、こういうところ。

経済的な効率性は生産要素の完全移動性を前提にしています。特に人的資源が自由にもっとも効率の高い職場に移ることが労働生産性を高める条件ですが、これは人々の生活の安定を犠牲にし、地域の生活や文化を破壊することが多い。これが地域格差」や「市場原理主義」などといわれる問題の一つでしょう。これは本質的なトレードオフで、両方を満たす方法はありません。生産要素の移動を規制すると生産性が下がることは自明で、経済的には望ましくない。

「オンデマンド経済学講座」(1)幸福は金で買えるのか(サンプル)

生半可な私の経済学の理解で言えば、経済学的に効率の高い社会においては、企業は常に限界利益状態にさらされていて利益は期待できず、常に存続と倒産の境界にさらされ続けている。働く人たちも、雇用と解雇の境目にさらされている。ちょっと経済的なバランスが崩れただけで職場や故郷を離れ、働く意味のためではなく、単に仕事が得られる場所に移動しなくてはならない。そんな「完全移動性」の社会に住みたいと思う?私は、自分の住んでいるところ、子どもを育てたいところ、自分が仲間と一緒にいられるところに居続けたいと願っている。生産性を高めるのも、ふるさとに貢献したいからだ。それこそが、自分の生きる意味だと感じる。

ちょっとまとまりのないエントリーだがそろそろ寝る時間なので保存し、公開する。またこの文章は書き直したい。


■追記

ブックマークにコメントをいくつかいただいた。どうも、私の申し上げたいことが伝わっていないので、id:Usekmさんへの呼びかけの形で補足してみた。

「やっぱり、経済学が悪いのではなく経済学者が悪いんだと思う」 - Togetterまとめ

コメント欄で匿名さんが教えてくださった権丈善一教授の「やっぱり、経済学が悪いのではなく経済学者が悪いんだと思う 経済学教育方法考」は大変重要な文章だと思う。

どうもこの本と関連があるらしい。

フリーフォール グローバル経済はどこまで落ちるのか

フリーフォール グローバル経済はどこまで落ちるのか


■経済学の「効用」

昨日の晩から、ヒントを「匿名」さんからいただき、考えている。

経済学の効用って、安く、大量に商品が変えるようになれば幸せだっていう仮定。安くて安心な自動車よりもミクのコンサート、金利が安く家賃より安く帰る住宅より「けいおん!」、リアル女より「ラブプラス」になっているいまの世の中を古典的な経済学の効用でくくっていいのか?生産性をあげるためには、ひとりひとりが自分の住みたいところで暮らせなくなってもいいのか?

あるいは、ドラッカーがボランティア組織への支援を行ったように、世界に慈善団体の和は広がっている。いろいろいうけど、ビル・ゲイツの財団はすばらしい活動をしている。これらの活動も効用だけで説明できるのだろうか?

アダム・スミスのころは、経済学は正直な取引の範囲をひろげれば、利己的に利益を追求してもいいんだよ、むしろ世界を広げるんだよというメッセージを伝えたのだと思う。しかし、現代の米国の金融政策を見れば、グリーディーとしていいようのない人たちが、グリーディーとしかいいようのないぶんどり合いをすることを、経済学者は肯定しているのではないだろうか?

「匿名」さんに深く感謝したい。

経済学者は、すでに現実のひとびとの意識の進歩において行かれているのではないだろうか?