前回は、本文に触れるだけの(!)時間がなかったので、非線形科学としてのギリシア哲学として、いかに古東先生が書いていらっしゃるかを考証したい。
- 作者: 古東哲明
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2005/04
- メディア: 文庫
- 購入: 4人 クリック: 14回
- この商品を含むブログ (15件) を見る
始めの原動力は、「在ること」への驚愕だ。
この世があり、この生がある。その<在る>ということの凄さ・神秘の告知である。この地球という星があり、そこに人が生きてあり、森羅万象が在ることの<<在りえなさ>>の覚醒である。
それは、まさに世界がカオスの縁にいるという驚愕だ。
雲が飛び、波が打ち寄せ、人が波乗りをしているこの情景こそが自分の身近にある「カオスの縁」だとつくづく実感した。波の跡、雲の形、どれもが1/f波やフラクタルといったべき乗則関連の「言葉」で記述されうるようにそのとき感じた。
時間よ止まれ - HPO:機密日誌
あるいは、すべてがつながりあって生きていると言う実感。
「麗澤とは太陽天に懸かりて万物を恵み潤すの義や」
(中略)
高校三年間、なんということなくこの額を見て、学校へ通いつづけた。そして、卒業間近のある日、突然、降りてきた。
ああ、太陽は見返りをまったく期待せずに、空に輝いている。その力でぼくらは生きているんだ。
そもそも、古東先生は非線形科学をご存じだ。
そんなウル次元との原関係をとりもどし、関係をむすぎなおすこと(レ・リギオン)(同時に自己の取り戻し)。そしてその原関係を保持したまま、相対的な差異の世界−−−これはこれで撤回しようのない現実世界だ−−−を感じ、考え、生きなおすこと。それが、相転移、つまりは哲学である。
思想的にだけではなく、社会も相転移する。がらがらと変わる。
そもそも世界は自らある。自ら自らをあらしめている。
自然宇宙みずからが自己の起源であり、自らが自己変化の担い手であり、自ら自分の始末をつけていく自己目的。その先もその後も−−−机上の空論としては議論できるとしても−−−、最初から問題にならない自然生起。つまり、<自ずから然か在る>だけ。
この発想は、自己組織化そのものだ。言葉を加えるまでもない。
で、そもそも古東先生自身が自己組織化に触れていらっしゃる。
超システムとは、組織システムそれ自体が、自分で多様化し、自己分化をとげ、自らを外部(非自己)に開いて適応し、もって自己組織化的に自分の行方を自己決定しているシステムのことである。内閉し自己完結する同一主体を基軸にするのではなく、外部(他性)へ開かれ外部を呼吸することによって、その自己性を保持する開放的閉鎖系といってもよい。だから、外部と内部とが、世界的身体制という仕方で、分かれあったまま吹きどおしになっている<ミ>は、典型的な超システムである。
ここで<ミ>とは物理的な「身」を超えて、あるいは重なりあい存在する「いのちの息吹」としての身体性をいうらしい。
【ミのポリフォニー】そんなミは、理知のヘゲモニーをまぬがれた暗黙裡の位相で、多次元的な機能や膨大な感覚情報をみごとに輻輳させ、ポリフォニー(複雑性現象)を織り上げている。ある一瞬の断面でいえば、それはシネシテジー(共感覚)による共時的ポリフォニーとなる。だがその共時的ポリフォニーは、時間経過につれ重層的に連結しあって、さらに複雑な通時的ポリフォニーを形成する。その通時的ポリフォニー形成にさいし、選択肢となるのが、膨大な「身体図式」である。
この地点をもって、オートバイに乗った米国横断から始まり、ギリシアを縦断して、極東の日本に至る非線形と哲学のポリフォニーの旅をいったん終わりたい。
ああ、ただ、古東先生の文章を読んでいて先生ご自身がなんらかの身体技法を身につけているのではないかという気がしてならない。道元への言及が本書の随所にあったが、私も自身も禅ですわって師に教えていただく世界と極めて近いものを感じた。
ガイド役を務めていただいたid:morutanさんに感謝もうしあげたい。