最近変な法律が多いね、という声があちこちで聞こえる。*1白洲次郎、白洲正子夫妻の本を読んでいると、ほんとうに昔から人のやっていることなんて変わってない。法律の質だって優秀な方々がやっているわけだから、かわりゃしない。でも、とても変な違和感があるのは事実だ。では、変わったのはなにか?
いろいろ考えてみて、違いとは、人が真面目に法律を実施するようになったことだという結論に達した。案外これまで法律は現場では守られてこなかった。よく「日本の下士官」の優秀さがほめたたえられるが、現場が一番ものごとがわかっているから、そこでの判断が優先された。いきおい法律とは、必ずしも守られなくともよいという気概のようなものがあった。法律を形成する令だの、告示だのが、どちらかというと現場の判断を支持するような形で補足され。現実に合わない法律は有名無実化され、慣習とともに現場の人間の常識と法律の常識の整合性が保たれていた。
いまは、現場の弱体化がいわれ、気概のある、ということは個性的な人物がいなくなり、法律を守ることが、現場や消費者の利害*2を超えて優先されるようになった。まじめすぎるんだな、みんな。いや、私自身を含めてね。不まじめでは仕事が進まないが、まじめすぎてももっと仕事がすすまない。非まじめに頭をやわらかく、主張すべきは主張するファイトが必要なのではないだろうか?
そういえば、そんな本があった。
- 作者: 森政弘
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1984/02
- メディア: 文庫
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おふざけで書こうと思ったが、日常にとりまぎれいるうちにおもしろく書けなくなってしまった。
■追記
明文化されることについてブクマコメントをいただいた(参照)。国際競争の時代で日本というコストのかかる多重的で日明示的なコミュニケーション手法をまもるよりも、オープンで世界とのつながりのもてるコミュニケーションに移行すべきだという論調には私も賛成したいのだが、これまでそれは成功してこなかったように思う。退行しろとはいわないし、裁量行政万歳!ともろ手を挙げるつもりもない。ただ、失われていくものに代わるなにかをまだ誰も見いだせず、インプリメントできるずにいるのは事実だ。
■おっしゃるとおり!
しかし、まじめはバカの埋め合わせにはならない。まじめなバカほど、はた迷惑なものはないのだ。(ホルスト・ガイヤー)
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日本人のまじめさの根っこにあるものはなんなのだろうか?もとからあったまじめさ、勤勉さとはちょっと違うところにあるような気がしてならない。