HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

White Trash Beautiful

世代を重ねておばかになっていっているのは、日本だけではない。確実にこれまで半世紀以上に渡って日本を支えてきた方々は老い、それを後継すべき我々の力不足は明確になってきている。しかし、それは日本に限ったことではない。

YouTubeで米国人のおばかさを端的にしめしたビデオがあったなと思い出した。探し始めたら、"White Trash Beautiful"が先に出てきてしまった。見てみて、ちと悲しい気持ちになった。

www.youtube.com

薄幸な女性、ゴミダメの鶴は美しく見えるものだ。美人はよいものだ。だが、本エントリーの本筋はそこではない。このおっさんがいろいろ語ってくれている。


Mark Bauerlein

プアホワイト(英:poor white)は、アメリカ合衆国諸州の白人の低所得者層に対する蔑称で、ホワイト・トラッシュ (White Trash) とも呼ばれる。特に、ウィリアム・フォークナーやアースキン・コールドウェルの作品に描かれるような、南部地域の貧困層の白人について言われることが多い。

プアホワイト - Wikipedia

今朝から考えていた。古代エジプトパピルスに「今の若い者はしょうがない」と書いてあったのは有名だ。だが、パピルスの若者への嘆きがきっと最古ではないのだ。文字が成立する前から年寄りから見ると若者はおばかに見えて仕方がない。そう、例えばパウロ・コエーリョの描いた文字が初めて伝播した世代の物語がある。「第五の山」だ。文字の使用によって神への敬意が失われると神官が恐怖し、文字が伝播してきたのに、その導入を禁止しようとした物語。年寄りから見たら、常に若者のやっていることは理解できない。若者は常に愚かで、軽薄だと糾弾する。

第五の山 (角川文庫)

第五の山 (角川文庫)

いわんや、ネットの黎明期のいまをや。

我々の世代は、初めて一般社会にインターネットが導入された世代だといえる。新しいイノベーションが世界を変えるとき、前の世代からは若者は恐怖を持って見られるものだ。だから、いまの若者は先の世代から見るとおばかにしか見えないという反論をさきほどのおっさんにしてやりたい。

のだが...うーん...ま、でも、こういうのを見ていると、さっきのおっさんに首肯したくなる。

正反対の意見もある。

ちょっと話は違うが、先日、この映画に完全に共感できなくなっている自分を発見した。なんといっていいかわらからないが知性ではない、反知性でもない、真実の道は確かにあるのだが、この年になってトム・ハンクスの演じる主人公を見ていると違和感を感じる。

フォレスト・ガンプ [DVD]

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そうそう、最初に言った探していたビデオとは、これこれ!

そして、これね、これも有名。

やっぱり、なんだかんだいっても我々もかの国も愚かになっていくばかりなのだろうか?


■SF的発想からの追記

あ、だからありさんたちは知性を捨てたのかもしれない。

恒星ペテルギウスを取り巻く大アステロイドベルトの片隅に形成された「巣」。そこには、知性を持たない生物の群体が存在していた。絶えず宇宙線にさらされ、重力もない環境で意識を持つこともなく営々と生れては死んでゆく生物たちの巣窟。

http://www.ccn.aitai.ne.jp/~tkatou/nbf_cica.htm

そして、Googleは私たちが楽園の中でありさんたちに近づくお手伝いをしてくれるらしい。

インターネットで、かつて一部の人にしか入手できなかった情報が多くの人に共有されるようになったことは、大きな進歩だ。しかし記事がページカウントで序列化されると、ジャーナリズムが軽視され、新聞社は海外支局を縮小している。メディアがデータベース化すると、深い思想や芸術は表現しにくくなる。それは「コンピュータに知能をもたせて人間に近づける」というグーグルの理想とは逆に、人間の知能を平板化してコンピュータに近づけるかもしれない。

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/b56745c8f68e8f3498f4d7577de845bf