HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

手塚治虫という存在

手塚治虫には、「ダイモンの声」ならぬ「ダイモンの映像」が見えていたのだろう。

どこかのエッセーに医学部時代のエピソードを手塚が語っていた。私の記憶だが、こんな内容であった。

進級試験の前の大事な授業なのに集中できない。目を閉じると頭の中では宇宙戦争の戦闘シーンがヴィヴィッドに見えてくる。「手塚!」という教師の声ではっとする。「お前も真剣に医者になるのか、別の道をあるくのか考えた方がいいぞ。」一瞬目をつぶっただけのつもりだったのに、教師からはずいぶん長いこと居眠りしていたように見えたらしい。

目が覚めている手塚も十分に優秀であり、最終的には医学博士をとったように十二分に理性的であった。この理性的な部分と「ダイモンの映像」との間にかなりの対立があったのではないだろうか?手塚がファウストに生涯こだわり続けたのも自分自身をファウスト博士の中に見出していたからではないだろうか?

さまざまな商業的な制約の中で、理性とダイモンの間の葛藤が数多くの未完の作品を生み、悲劇的な週末を迎える作品群を産んだのではないだろうか?私の中でその頂点に立つのが「千夜一夜物語」だ。

このひとつ前に作られた「クレオパトラ」あたりから虫プロはおかしくなり、この後に虫プロで作られた「悲しみのベラドンナ」のクレジットには手塚の名前はない。

手塚治虫の「心中物」は、手塚が自分で生き延びるためにどうしても書かねばならない作品だったのではないだろうか?この問題の1970年に手塚治虫は42歳になっている。つまりは、男の厄年だったのだ。

手塚治虫と心中物 ~when a man loves a woman~: HPO:個人的な意見 ココログ版

亡くなる数年前の手塚治虫が話をするのを聞いたことがある。「ぴあ・アニメフェスティバル」というのが当時行われていてそのひとこまで「おんぼろフィルム」という作品の上演と手塚の話で構成されていたように思う。

手塚はこれまでさまざまな制限を受けた仕事してしてこなかったが、自分で思い通りのアニメを作りたかったと語っていた。正直、それまで私の中では神のような存在であったのだが、実勢に目の当たりにした手塚は非常に凡庸な、普通の人だという印象をだった。しかも、制約なくつくったというアニメがまた私にはとても凡庸であるという印象をもった。20年ぶりにいま見てもそう感じる。