HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

質感とはなにか?

yokoさんがニュースを書いていらっしゃった。

やはり、コップを前に1年くらいなぜコップがコップに見えるのか考えた私にとっては、悩ましい問題。

全体的な体験だというだけでは実は回答にならない。環境という言葉が自分にはにつかわしいし、アフォーダンスと逃げたくなるが、それでは実装できないし、コップを描けない。

そう、洞窟にすんでいた時分から人が絵を描いてたことは驚きではある。名前をつけることとそのものを認識し、形を再現するということは実はすごいことだ。動物のものの見方と人のものの見方は明らかに違う。ハエの目が動きしか検出しないのと同じだ。あるにおいを「運動会のあとの雨」と名づけることで、人は確実に環境の中の存在として必要なだけの感覚知覚から一歩踏み出している。たぶん名づけるという行為がなければ、人は客観という他人と相互に同じ言葉で指し示す体験を持つことはできない。

体験自体は決して共有されない。人の感覚知覚、人の怒りや悲しみは、肌一枚を通して直接他人に伝えられない。動作や声で人に影響を及ぼすことはできても、テレパシーのような感覚の共有はSFの世界だ。

それでも、単細胞の生物が群れを作り、多細胞生物になることができた。単細胞から多細胞になるときには、個体の細胞の体験を共有したといえるのではないだろうか?そう、その体験の共有は本質と本質を交換する生殖という行為につながるのだろう。

やはり、子をなすということは、多細胞になってしまった人にできる唯一で最高の体験の共有なのだ。

いや、それはともかく、肌一枚で隔絶されてしまっているのに、言葉というまことにやっかいな抽象世界、抽象空間、抽象認識を持つにいたった我々人にとって、感覚知覚とはなんなのか?

いま色紙を眺めている。


物格 知致 意誠 心正


身修 家齊 国治 天下平

こうした言葉の方がクオリアとか、言語学といった語彙よりも近しく感じる。


なんとなく結論が出た。質感を得ることが格物致知であるとすれば、私のキャッチコピーはこんなだ。

Feel the One. Be the One.

そして、それはこういうコピーに続く。

If you know you can change yourself rightly, you know you can change the world.