昨日の続き。
そもそもブログを書き始めたのは、ウェブやネットとむすびついたべき乗とか創発といった概念は大きな社会的不安をもたらすのか、それともその先に道徳を含む社会の構造を明らかにするのか見極めたいという動機からだった。
恥ずかしながら、「暗黙知の次元」を読み始める - HPO:機密日誌
ポラニーと安冨先生と私の接点はこのあたりじゃないかと信じる(って、えらそげだけど)。
「道徳意識」をどう定義するかに大きく依るのだが、謙譲というか、「学びあうこころ」ではないかと私は思う。自分が自分を最高に大事だと思っているように、相手も相手自身のことを最高に大事に思っているという感覚が道徳の始まりではないか?道徳的に生きるとは、生涯を通じて学び続けることだ。安冨先生の「ハラスメント」の議論は、この自分から相手を学習することにより信頼する能力を悪用する、自分自身を疎外する「邪悪な存在」がいるということだ。
複雑さを生きる―やわらかな制御 (フォーラム共通知をひらく)
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人間以外*1の動物には邪悪さはない。どれだけ食い合い、殺し合いしていても、共生のうちにある。それは、そう、上野の国立科学博物館に行けば実感できる*2。人だけが人に対して邪悪になれるとは、いかなる矛盾であろうか?
そして、「学び合う」という戦略と、「裏切る(ハラスメント)」という戦略において、ゲーム理論に従えば確実に裏切りに軍配があがる。しかし、安冨先生が貨幣と商人をめぐるシミュレーションで明らかにしたように、「一度は相手を信用(学びあう)するが、裏切った相手は二度と信用しない」ことが多数のプレーヤ間の長い時間にわたる戦略においてはドミナントになる。
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いや、現実世界を見ると、ハラスメントがパーコレーションを起こしているかな...?
「暗黙知の次元」の真の価値はやはり冒頭のブハーリンへのアンチテーゼということではなかろうか?科学的合理主義と道徳への熱情の結果が、真の知的探求や自由を抑圧してしまうという深い失望、ニヒリズムへの疑問がポラニーにはある。
生き物には生きるべき場所が必要だ。自分が生きる場所がその生き物の延長であり、生活の場なのだ。麗しい澤にいるからこそ、魚も、サワガニも、川虫もそれぞれの場所で生きることができる。その場所の形がその生き物の形を決める。私は、人間も同じだと感じる。自分が生きる場所が、自分自身だ。自分自身が、自分の場所であらわすものが、自分の命だ。
麗しい澤: HPO:個人的な意見 ココログ版
そして、道徳を、そして命を私は人と共有したいと思う。
■追記
北村弁護士の演説から読んでいって発見。感動。
道徳が本当に良かったものだとして、それを今の世の中に再度取り込もうなんて考えるなら、やるべきことは「絆」の強化。
社会の表現型としての道徳 - レジデント初期研修用資料(旧)
「進化」とか「暗黙知」の帰着点として道徳はとらえるべきのだと私も信じている。
http://d.hatena.ne.jp/hihi01/searchdiary?word=%c6%bb%c6%c1
*1:いやサルの一部は種族内で殺しあうことが発見されているから厳密には「サルの一部も含む」前に入れるべきかもしれない
*2:いや、そんなところまでいかなくとも野原を見ているだけで十分かもしれない。
http://www.kahaku.go.jp/exhibitions/ueno/permanent/01/1f.html