学習することは環境に適応するということだ。環境に適応するとは、現在の環境が指し示す方向を予想して行動することだ。これが、自然な生きる力として働くのか、「内罰」的に働くのかが、安冨先生のハラスメント以来の議論の焦点のひとつではないだろうか?
この観点に立てば、最近話題の「忖度」のメカニズムこそ安冨先生が「東大話法」などで攻撃してきた日本的なシステムの根源にあるなにかではないだろうか?ぜひ先生のご意見を聞いてみたいものだ。
多くの意味で、忖度は典型的な責任逃れだ――日本人が自己批判する際のリスト項目で、「集団思考」や「反射的服従」と並び、不正行為の言い訳だ。文化に根ざす説明がわき出る泉で個人の責任を薄めている。
だが、決定的な違いは、忖度には権力の中枢を特定する紛れもない才覚を伴う。幼稚園の問題で実際に忖度が働いたのだとすれば、安倍氏が現在感じている戸惑いは、長年権力からの影響を完全に免れてきたように見える政治環境において、同氏がとてつもなく大きな個人的権力の基盤を固めた直接的な結果として解釈できるのだ。
[FT]Sontakuがつなぐ日本のスキャンダル :日本経済新聞
私は「忖度」・「内罰」的行動と、自分が自分の意思によって生きる方向を決めて行動することの違いは本質的にはないのではないかと想っている。自分がなすべきことをなす、そのために自分の行動を規定し、磨き上げることこそが活き活きと自分の人生を生きることだと私は想っている。