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HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

経済学者は内罰的なのか?

「生きるための経済学」の補論。自由の反対側にある自己嫌悪の問題。というか、現在の経済学は生きた人を扱っていないという批判の先に経済学者自身の問題がいくつか書かれている。「死に魅入られた(ネクロ)経済学」だと。安冨先生は本書の中で、宗教改革以来、いや、それ以前から西欧の倫理には神に対する恐怖、極度な内罰的「神話」があり、それがそのまま現代の経済学の基礎となっているという主張をされている。経済学者がそもそも「恐怖」に駆られる内罰志向をもっており、それが経済理論にそのまま反映されているのだと。

生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却 (NHKブックス)

生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却 (NHKブックス)

ネクロ経済学の産みの親であるスミスは、精神的な問題を抱えた人であった。母親の強い束縛のもとに育ち、生涯結婚することなく母親と二人で住みつづけた。スミスは、突然何かの考えにとりつかれて呆然となったり、あるいは一人ごとを言ってにやにやしたりといった奇行があったことで知られており、特に母親の死後はそれが顕著になったという。

この後に、幼児が成長につれて「大拷問者」を自らの中に抱えるようになるとスミスが書いている話になる。この「大拷問者」こそが母親であると。一方、矛盾するかのように幼児時代の恐怖を成長に従って忘れてしまうとも書いている。

この箇所の主旨は、「ぼくがこんなに苦しいのは、お母さんのせいじゃないんだよ」という、自分の母親に対する弁護であるように想われる。そしてスミスが、何の必然性もないのに、わざわざこんなことを書くのは、幼児のスミスが覚えた恐怖と懸念とが、病気によるものではなく、母親自身に起因することを、無意識が彼に教えるからではないだろうか。その無意識通知にうろたえて、いやそうではない、悪いのはお母さんじゃない、と自分に言い聞かせるために書いているように私には思える。

この箇所の脚注に以下のように書いてある。

羽生の本(「マックス・ヴェーバーの哀しみ」)に対しては、激しい反発が予想されるので書いておきたいのだが、この本に書かれたヴェーバーの人生に適当な変更を加えると、私の人生になる。ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」に対する羽生の解釈が正しいかどうかは別にして、この本に描写されたヴェーバーの心理は、私自身の姿に近い。

この本の副題が「一生を母親に貪り喰われた男」だと。ここまで、考えた時に恐ろしい連想が浮かんでしまった。映画の「サイコ」だ。母親からの許し、癒しを求めて「サイコ」の殺人鬼は、女装していた。死んだ母親からは永遠に許しも、癒しも得られない。

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