中国式人材登用方式にはそれなりに合理性がある。
以前、長寿化社会においては利用できる空間、地位、リソースが不足しかねないため、絶滅や急速な減少が起こりうるという分析をした。
自分自身で倫理的にかなり抵抗を覚えながら、出てきた結論一方で妥当性があるのだと感じていた。
以前から、また、人類という種において「子どもを産めなくなった個体の存在」が特殊であるという主張もずっとひっかかっていた。
ずいぶん前に中国へ行った。
地方政府で我々の面倒を見てくれた人がいた。一人は市長の甥っ子さん、一人は外事弁のベテラン。甥っ子さんがこれがまた切れ者で、日本語はべらべらだし、実に市役所内に顔がきいた。将来を約束されているのだなというのが、外部の私たちにもよく伝わった。
ベテランさんは、日本人の我々があまり好きではなかったようで、ぶすっと最初はしていたのだが、たまたま私が英語が少ししゃべれることがわかると英語で話しかけてくれた。ベテランさん曰く、「上からひっぱりあげてもらうのでないと、どれだけ能力があってもあがれない。実に不平等だ。」、と。
すこし前にもまた中国へ行った。
全青連に大変お世話になった。聞けば胡錦濤国家主席もここの出身だというし、今度全青連の代表に選ばれた方もこの先を約束されているのだという。何人かお会いして、実に若いうちに国家の実務に携わっていらっしゃるのだというのがよくわかった。ちなみに、彼らはいわゆる太子党とはまったく違う。
こうした中国のシステムは、実は長寿社会において世代間の競争を生む原因をたくみに回避しているのではないかと最近思う。競争が世代の中で存在しても、上と下とでは非常に私的な関係でありながら相和す部分があるのではないだろうか?世代交代という観点から見れば、上の世代と下の世代が対抗しあっている限り、悲劇の幕が開きかねない。たとえば、「リア王」のように。
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上の世代が子どもをなす年齢を過ぎても、行き続けていることの意味は、下の世代を引き上げることにあるのだと思う。そして、その「引き上げ」は、非常に私的な行為に基づく意外にありえない。そう、たとえば親族であるとか、自分自身が教育した師弟関係とか、になる。
この辺のバランスがよくもわるくも取れていたのがちょっと前までの日本社会であったのだが、同族企業から、教授のいすから、家元制度から、世代を重ねる大家族から、すべて同時に崩壊しつつあるのではないだろうか?
すでに日本はアジアではないのだ。