HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

主義主張で生活を分ける

これまで人と人との縁は、物理的な距離で制約を受けた来た。好むと好まざるとにかかわらず、近くに住んでいる連中の間での評価を気にし、自分の主義主張、趣味趣向よりも、隣人との摩擦をさけることが第一とされてきた。つい100年、いや数十年前までは、評価評判が自分の生き死ににかかわるくらい重大だった。「末代まで」という言葉に象徴されるように、自分の親族や子々孫々までその害は及ぶとされてきた。

ネット界隈ができるしばらく前からようやく自分の趣味趣向で、地縁を越えた近所づきあいができるようになった。もちろん実際の近所づきあいからすれば、仮想的な関係に限定されてしまう部分がどうしてもある。地縁では「ああ、だれそれの息子だ」とか「だれだれちゃんのいとこだよね」とかいうだけで、その性格などまで限定されてしまう。あるいは、逆にそれだけ受け入れられる。しかし、仮想的な付き合いではその主体の性格を決定づけ、信頼の源泉に大きく欠落があった。

そこでは趣味趣向、主義主張に分かれ、対立が生まれた。炎上する自由ができた。

(あ、でもさすがにネット上の炎上で障害事件が起こった、自殺者が出たという話は不思議に聞かない。おいらの不勉強なだけか?)

地縁の場合は資源として空間という大きな制約条件があったわけだが、ネット上の資源は広大だ。別に主義主張が合わなければ、分かれてしまえばよい。それぞれで別の空間を作り、そこにこもればいい。もう少しネットの技術が進めば、地縁での関係をまったく絶ち、自分と主義主張の合うものだけの生活空間を作り出すことも可能になるのではないだろうか?

これまで究極的なリアリティーを与える権威は、宗教や国に依存していた。メタメタなフレームとして最低限の国を認めてしまえば、自分のリアリティーを生む根源を共有する新たな部族民として生きることはできるのではないか?ときたま他の部族との境界あらそいはあるかもしれないが、ネットの広大さを思えば最低限でよい。

ネット上に生活の重点を置いてしまえば、環境問題の上からいっても最低限のエネルギー消費、最低限の居住空間で足りてしまうだろう。自分の存在の至高のリアリティーをネットにおけるのであれば、かなり物理的な世界での環境ストレスは減るのではないか?

あとはリアルの天然資源をどう配分するかだけだ....それが一番大きな、真剣な問題なのかもしれないが。