日米交渉
一方松岡のこの外遊中、日米交渉に進展が見られていた。駐米大使野村吉三郎と米国務長官コーデル・ハルの会談で提案された「日米諒解案」(日本には4月18日に伝達)がそれである。同案には、日本軍の中国大陸からの段階的な撤兵、日独伊三国同盟の事実上の形骸化と引き換えに、アメリカ側の満州国の事実上の承認、日本の南方における平和的資源確保にアメリカが協力すること、が盛り込まれていた。なお、この諒解案そのものは日米交渉開始のため叩き台に過ぎなかったが、これを「米国側提案」と誤解した日本では、最強硬派の陸軍も含めて諸手を挙げて賛成の状況であった。ところが4月22日に意気揚々と帰国した松岡はこの案に猛反対する。自らが心血注いで成立させた三国同盟を有名無実化させること、そして外交交渉が自分の不在の間に頭越しで進められることを松岡の自尊心は許さなかったとの評がある。しかし1941年6月22日に開戦した独ソ戦によって、松岡のユーラシア枢軸構想自体、その基盤から瓦解することになる。松岡は締結したばかりの日ソ中立条約を破棄して対ソ宣戦することを閣内で主張し、また対米交渉では強硬な「日本案」を米国に提案するなど、その外交施策も混乱を招くこととなる。日米交渉開始に支障となると判断した近衛首相は松岡に外相辞任を迫るが拒否。近衛は7月16日内閣総辞職し、松岡外相をはずした上で第三次近衛内閣を発足させた。
なんか近衛とか、尾崎とかいろいろ思い出されるが、自分が確定的な事実に迫っていないことを自覚する。

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日本の陸軍は元来大陸作戦をもって陸軍の本義として居り、日露戦争以来その戦略配置は対ソ戦に重点を置き、殊に満州事変以来は関東軍が軍略、政略両面で陸軍の今回をなして居った。その陸軍が本来の作戦基地を捨ててなぜ南方に行ったか、これは重要な問題である。
松岡外相が日独伊同盟締結の余勢をかって独伊を訪れ、帰途モスクワに立ち寄って、日ソ中立条約を締結した真意はついに永久に不明である。しかしながら、歴史の客観的現実は、ソ連に後方の憂ひをなからしめ、対独戦の勝利に貢献したことだけは、厳然たる事実である。その政治的価値は小さいであろうが、尾崎秀美と最も親しかった西園寺公一が、松岡外相と同時にその政務嘱託となり、訪欧の旅に同行したことも何等かの意義なしとしない。
なんか猛烈に歴史を勉強しなければという気持ちになってきている。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~t-senoo/Sensou/matuoka/sub_matuoka.html