HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

南京虐殺なんて当時のライフ誌のどこにも書いていない

国立歴史民族博物館に先日行った。船から客船に乗り移ろうとする中国人の写真のついた記事に南京虐殺で避難する中国人うんぬんというキャプションがついていた。記事を読むと、「虐殺」については記述がなく日本軍が来るというので、1937年12月5日に富裕層が客船のチケットを求めて客船に近づく様子だとある。これを「虐殺」の証拠として展示することは適切なのか質問した。

LIFE - Google ブックス

ようやく帰って来た回答には、中身を読みたいのならグーグルブックスを見ろと。なるほど検索してみると出てくる。「LIFE January 10, 1938」issueを読めた。しかし、この記事の写真と「虐殺」を結びつけたことについては説明はなかった。ちなみに、12月5日の時点では南京では戦闘すらまだ始まっていない。

12月4日
日本軍、南京市郊外まで進軍。
12月7日
日本軍、南京防衛軍の外郭防御陣を突破。午後一時に南京市へ攻撃を開始。中国軍は防衛司令長官唐生智を残して総統蒋介石中国軍首脳陣が南京を脱出。続いて中国政府要人や地方公務員等が南京を脱出した為、無政府状態となり市民は混乱状態に陥る。これにより電話不通、電気水道が停止。中支那方面軍は「南京城攻略要領」を示達[8] 。

南京戦 - Wikipedia

そして、12月17日には有名な入場式を行う。この記述にあるようにほぼ組織だった抵抗のない開城であった。しかし、当時の中国政府の首都を落とした功績は大きい。日本軍側が自分たちの武功を誇りたいがために、過激な戦況報告をしたために「南京虐殺」などといまだにいわれつづけることにつながる。

私の中の日本軍 (下) (文春文庫 (306‐2))

私の中の日本軍 (下) (文春文庫 (306‐2))

ちなみに、同号のLIFEのもっと後のページに、南京攻略前後の写真を伴う記事があった。入城の写真はあっても、「虐殺」の写真はなかった。