中沢新一にはまっていたころ、個が個でありがながら、全体と調和するという夢を持った。「フラクタル」をモチーフに、個が個でありながら、全体と調和するイメージを「雪片曲線論」にのぼせた自分は若かった。
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渡辺京二によれば、北一輝は、高校生の私が「フラクタル」に持ったイメージを「国家」に対して持ったという。
- 作者: 渡辺京二
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第一の点(社会と国家の関係)から見て行けば、彼(北一輝)は、社会を個人の「集合せる或る関係、若しくは状態」とみなす市民社会主義的社会観をよく承知していた。そして社会をそういうものと見なせば、国家を「止むを得ざる害物」とする見かたが必然であるのも、同様によく承知していた。だが彼はそういう「個人主義的」社会観を拒否した。彼の考えでは、社会は利害を異にする原子的個人が契約によって成り立たせているシステムであなく、共同社会、すなわち生命ある一個の有機物でなければならなかった。社会を、原子的個人がたがいに自由と権利を求めて干渉し合っている自然状態と解するからこそ、国家は人為的な権力機構にみえてくる。ところが北は社会を有機的共同社会と解するのであるから、国家もまたそれとは別個の権力機構ではなく、その異名にすぎぬと彼には考えられるのである。
北は、村社会の集合体にすぎなかった江戸が終わり、「個と全体」が調和しうる「国家」という概念に取り憑かれた男だと了解した。村落社会においては、掟と血と肥だめが一体である。この一体感において、共同社会として成り立っていた。多くの日本人は、村落社会が拡大したのが国家であると受け止めた。
猪瀬直樹の「ミカドの肖像」の中に、明治大帝の「御糞」の下賜を願い出た男の話しがあった。なんと尾篭な話しかと大学生の私は思った。
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しかし、掟と血と肥だめが一体であることによって共同性を保っていた村落意識からすれば、明治大帝の「御糞」を村で祭ることによって初めて「国家」が理解できたのではないだろうか?
この理解の延長線上斜め上くらいに北を位置づければ、いまも昔も国家社会主義的な思想は若者には魅力的に映るものだと了解できる。
余談だが、「一輝まんだら」を描いた手塚治虫にも、似た志向があったのではないかと思うのだが、検証できていない。
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そうそう、笹川良一の大衆に基礎を置く右翼も、「御糞」と「有機的国家社会主義」をつなぐ線上にある。
常に新しい技術、理論がブームを迎えるたびに、個と全体の調和をそこに見いだそうとするバイアスが人間にははたらくのではないだろうか?ネット技術しかり。