夏目漱石がやたら学問があることをあの時代にして「ハンデ」として扱っているのが疑問だった。明治の功なり名を遂げる立身出世、富国強兵が一段落した時代だるとはいえ、学問を身につけること「末は博士か、大臣か」という言葉に象徴されるようになによりも価値を誇っていた時代のことだ。
ここのところ、頭の隅にずっとこの疑問があった。
先日カンボジアに行って、壁面すべてにレリーフで埋められているアンコール遺跡群を見た。空間を新たに構成し、その空間を意味ある記号で埋め尽くすすさまじいまでの情熱に打たれた。このレリーフの中で、人はものごとを自分のわかる論理で説明したがっていると直観した。
たとえば、明治の初等教育で「柿問答」というのがあったそうだ。柿についてその性質や、使い方を格言風にまとめたものだと相当前のNHKの番組で紹介していた。
すべてのことは、言葉で説明できると信じることが「学問」を持つことではないか?
しかし、大切なことは、言葉で説明できないことだ。というか、言葉の連鎖、言葉の延長では、学問分野のドグマを超えられない。言葉の外部にある「もの自体」のようなものの生命力に触れて始めて言葉による説明の体系である学問が進歩しうる。
アンコール遺跡群も、発掘されるまではジャングルの中に埋まっていた。
天空の城ラピュタとアンコール遺構 - HPO:機密日誌
安冨歩先生の「縁切り/縁つなぎ」も、言葉でない行動のために必要だと感じる。
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てなことを、うだうだ「言葉」で書いている自分はなんなのだろうと。
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