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HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

台北市の大稲埕地区

古くからの友人に連れられ、彼の言う"Old Town"、大稲埕地区を見学させてもらった。もう素晴らしかった。ここに住み着いて、街づくりの仕事のお手伝いをさせて欲しいほど!昔の台北の繁栄の様子が伝わる。

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ここは、セットバック方式でなく、ハングオーバー方式で建物の一部が回廊になっているところに特徴がある。日本だと元町がそう。繊維関係ということで、古い町、繁栄した街ということで共通点があるのか?

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この古い町の中でプロヴァンスを思わせるプチホテルを発見した時には、感動に近い感情がきらめいた。

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「油化街・十連棟」、「新天地」という再開発がまたすばらしい。表側の「十連棟」を残し、改良し、ギャラリーにしながら、一本内側では中高層のマンションと店舗という再開発をされたとのこと。

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ここにいると、本当に昔の姿を生かして、現在につなげている。ハングオーバーしている通りの中でところどころ、セットバックしている中高層建物がある。そういうところは、一階の店舗ががらあきだったり、荒廃している感じであった。自分がやってきたセットバック事業でいくつ本当の繁栄につなげられたのか、歩いていて反省させられた。

話しは本当に尽きない。

www.tripadvisor.jp

場所としては、この辺り。

大稲埕(だいとうてい/ダーダオチェン)は現在の台湾台北市大同区附近の名称であり、艋舺を継承して台湾で最も発展した地方である。清末から日本統治時代にかけて,大稲埕は経済、社会、文化の中心地として台湾の発展の中心地であったばかりか、人文等の学術の中心地でもあり、現在でも往時の様子を伝える建造物等が散見できる。

大稲テイ - Wikipedia

もともとの台北はこの辺りから始まったと友人は言っていた。淡水河の河口から少しさかのぼり、河がゆるやかに曲がっている部分は、確かに港に最適であったのだろう。米、漢方、繊維関係のお店が以前は多かったと言っていた。ここにはぜひまた泊まりがけで着たい。

「考えるゴルフ」再読中

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ブログは本当に便利。前回いつ読んだか、どういう感想を持ったかがボタン一つで出てくる。五十にもなると、新しいことを覚えただけ昔を忘れていく。このエントリーによれば、完読したはずなのにかなり新鮮に読めている。

hpo.hatenablog.com

もっとも前回はきっとまだ本書の「教え」と自分の身体の感覚が一致していなかったので、頭だけの理解になっていたのかも知れない。散々、コース上のアップダウン、左上がり、左足さがり、つまさきあがり、つまさきさがりなど、数々の「教え」を読んできたが、自分の実感には一致しなかった。本書では、「目線だ」と言い切り、左ウェイトにし、右肩が上がらないように気をつけて打てと断言している。ここのところ、ダフったり、右に曲がり始めたりすると、左足ウェイトにして、打つようにしている。

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ここのところ、苦労しているシャンクについても、「左腕を伸ばしている」ことが原因だとし、左肘を畳むようにしろと。具体的には、右手、左手を離して素振りをしてから打てと。これはぜひやってみたい。

その他、いまの私にはとてもヒントになる内容がてんこ盛り。ひとつひとつ身体の感覚で試しながら、本書を「再読」したい。

初バニラエアー

成田空港から出張でバニラエアーに。なかなか新鮮な気持ちで登場。

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さすが、全日空さんの関連のお会社なので、みなさんフレンドリー。笑顔が素晴らしい。それにしても、手荷物を預かっていただいたグランドサービスの方が、登場のボーディングブリッジに現れた時はびっくり。飛行中、CAさん達がカーテンの中で準備したり、たぶんお食事されたりしてたり、LCCのノウハウが随所にあるように思われる。

快適なフライトだった。

経済学者は内罰的なのか?

「生きるための経済学」の補論。自由の反対側にある自己嫌悪の問題。というか、現在の経済学は生きた人を扱っていないという批判の先に経済学者自身の問題がいくつか書かれている。「死に魅入られた(ネクロ)経済学」だと。安冨先生は本書の中で、宗教改革以来、いや、それ以前から西欧の倫理には神に対する恐怖、極度な内罰的「神話」があり、それがそのまま現代の経済学の基礎となっているという主張をされている。経済学者がそもそも「恐怖」に駆られる内罰志向をもっており、それが経済理論にそのまま反映されているのだと。

生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却 (NHKブックス)

生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却 (NHKブックス)

ネクロ経済学の産みの親であるスミスは、精神的な問題を抱えた人であった。母親の強い束縛のもとに育ち、生涯結婚することなく母親と二人で住みつづけた。スミスは、突然何かの考えにとりつかれて呆然となったり、あるいは一人ごとを言ってにやにやしたりといった奇行があったことで知られており、特に母親の死後はそれが顕著になったという。

この後に、幼児が成長につれて「大拷問者」を自らの中に抱えるようになるとスミスが書いている話になる。この「大拷問者」こそが母親であると。一方、矛盾するかのように幼児時代の恐怖を成長に従って忘れてしまうとも書いている。

この箇所の主旨は、「ぼくがこんなに苦しいのは、お母さんのせいじゃないんだよ」という、自分の母親に対する弁護であるように想われる。そしてスミスが、何の必然性もないのに、わざわざこんなことを書くのは、幼児のスミスが覚えた恐怖と懸念とが、病気によるものではなく、母親自身に起因することを、無意識が彼に教えるからではないだろうか。その無意識通知にうろたえて、いやそうではない、悪いのはお母さんじゃない、と自分に言い聞かせるために書いているように私には思える。

この箇所の脚注に以下のように書いてある。

羽生の本(「マックス・ヴェーバーの哀しみ」)に対しては、激しい反発が予想されるので書いておきたいのだが、この本に書かれたヴェーバーの人生に適当な変更を加えると、私の人生になる。ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」に対する羽生の解釈が正しいかどうかは別にして、この本に描写されたヴェーバーの心理は、私自身の姿に近い。

この本の副題が「一生を母親に貪り喰われた男」だと。ここまで、考えた時に恐ろしい連想が浮かんでしまった。映画の「サイコ」だ。母親からの許し、癒しを求めて「サイコ」の殺人鬼は、女装していた。死んだ母親からは永遠に許しも、癒しも得られない。

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自由とはなにか?

自由とはなにか?「生きるための経済学」を再読して、改めて考え始めた。なぜなら、本書の中心概念であり、本書が提唱する目指すべきの生き方であるから。

生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却 (NHKブックス)

生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却 (NHKブックス)

目次

自由と自己欺瞞、虚栄、共同体

自由とは、安冨先生が目指すところを推測すれば、自己欺瞞、虚栄、共同体といった誘惑に満ちた「自由」で満足するのではなく、常に「創発」に向かって開かれた存在となる、なりつづけることであることかと想える。とはいえ、人は自ら快楽であったり、仕事であったり、異性であったり、富であったり、自分以外のものに隷属しがちである。このパラグラフも「自己欺瞞、虚栄、共同体といった誘惑に満ちた『自由』」の幻想の自己欺瞞に陥らない、と書くべきであった。

フロムの「〜への自由」

まず、「生きるための経済学」における「自由」に関する部分をいくつか抜き書きしていきたい。フロムの「〜からの自由」、「〜への自由」とは実に説得力のある議論である。また、現代人にとって一番ぐっとくる自由の概念定義ではないだろうか?

「生きるための経済学」 P.177

 フロムは、このイメージ(失楽園、自然との融合というエデンの園からの逃亡)を近代以前の「共同体」に安直に持ち込み、個人が共同体に全面的に結びつけられている状態で感じる帰属意識を「第一次的絆」と呼ぶ。それは、「子どもをその母親に、原始共同体の成員をその部族と自然とに、中世人を教会と社会的身分に結びつける絆」である。
 この一時的絆は「自然」の代替物である。そこから離脱することで人間は自由になり、近代人となる。この自由は「〜からの自由」という消極的な自由である。ところが、人間はこの自由が生み出す孤独感に耐えられない。それゆえ、偽装的な二次的な絆を求める衝動に駆られ、ときには消極的な自由を放棄してまでも、そのような疑似的絆を作り出そうとさえする。このような心性こそがファシズムの温床である。この衝動から抜け出さない限り、自由を守ることはできない。
 そのためには「〜への自由」という積極的自由を人間は獲得せねばならない。これは「行為が本能的に決定されることからの自由」であり、「選択の自由」を十全に行使しうる自己を確立することである。それによって「すべての人間との積極的連帯と、愛情や仕事という自発的な行為」を実現することで、自由を独立した人間として、世界とつながりを回復することできる。以上がフロムの「自由からの逃走」の標準的解釈である。

もうこのすぐ次の段落で、フロムのこの議論は安冨先生に一刀両断に去れてしまう。「絆」という「共同体」を志向した途端に、「自分自身の情動を裏切るような世界観」を押しつけられ、自我を喪失、自分の情動が信じられなくなる、と。ありとあらゆる自己欺瞞を排除し、自己嫌悪から起こる利己心までも排除しようとする安冨先生であるなら、ここまで徹底することになる。ちなみに、とてもとても「世界とつながりを回復」とまではいかないが、私はフロムの言う「〜への自由」の共同体を自分の地域で発見して、で自分の生き方を決定したと想っている。

君子たるべし、エリート中毒なかるべし

一方、このようにも書かれている。

P.190

もちろんこれ(自己嫌悪を覆い隠すために他人に認めてもらう行為の全て)は、勤勉、倹約、身嗜み、家庭を大切にすること、公益への奉仕、などといった徳目を否定するものではない。それらを、自分自身の生きた感覚から生み出されたものとして行うなら、それはじつに尊敬すべきことである。しかし、社会的自我に追い立てられて、体面を守るために「実用主義的な恥」から幸福の偽装工作として行うなら、それは虚栄であり、自己欺瞞を拡大する危険な行為である。問題は何をするかではなく、どのようにするか、である。人に叱られないためにするなら偽装であり、自発的にするなら徳目である。

「君子たるべし」と古典教育をもって育てられ、職場でのリーダーを務める責任からこころから基本的な徳目を満たすべきであると私は考えている。これも、自分自身が明らかに仕事中毒でった過去を考えれば、自己欺瞞ではないと言い切れはしない。ここの微妙なラインが共同体に認められながら生き延びることができるか、悲劇につながるかの機微となる。安冨先生は、引用部分の後に、「エリートという呪縛」という話しにつながる。この分析はそのまま高橋まつりさん事件である。私自身がこうならなかったとは言い切れない。自殺までいかなくとも、鬱のような状態におちいってもおかしくはなかった。

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安冨先生の自由

富も、仕事も、家庭も、共同体も、宗教も、すべては自己欺瞞であるとした後、安冨先生は自由について軽やかに語られる、

P.236

 自分自身を嫌悪せず、自らを愛する者は、自分自身でありつづける。そうする者は、虚栄には反応しない。それは死を示唆する気持ちの悪いものだからである。
 自分自身である者は、何をするかは自分で決める。自分自身の内なる声に耳を傾ける者は、独善ではない。なぜなら、内なる声には、周囲の状況への対処がすでに含まれているからである。なにをするかを自分で決める者は、自律的である。
 自律は自立でもある。経済学者中村尚志の指摘したように、自立とは他者に依存しない、というのではない。自立とは、多数の他者に依存できる状態をいう。いつでも頼れる人が100人ほどいれば、誰にも隷属しないでいられる。そのような豊かなネットワークを持つ人こそが、自立した人である。自愛が溢れ出る人*2であれば、生命を肯定する人々を惹きつけて、豊かなネットワークを作ることができる。

いうまでもなく、「内なる声には、周囲の状況への対処がすでに含まれている」とは孔子の「心の欲する所に従って矩を踰えず」という境地であり、孔子様ほどの君子、成人ですらこの境地に達するまでに七十年を要している。安冨先生の理想はよくわかるのだが、いま現在五十になってもこの境地に達し得ない私はどう生きたらいいのか?また、「誰にも隷属しないでいられる」とは特定のパートナーを作らない、いわば男女関係で極端に言えば「乱婚」を許容することになる。私は男女の間で分業関係が生まれた時に、家族が生まれ、現在の人類の経済的発展の礎となったと主張している。ハラスメントを避けるため、自己欺瞞に陥らないために、常に創発あふれる人間関係に対してオープンであるべきではあるが、安冨先生のご主張をそのまま受け止めれば家族という人類の礎すらも否定することにならないか?そもそも、ネオテニーで無力な幼児として生まれる人類においては、男と女の安定した関係を含む家族がなければ、生命を肯定しようにも、生命そのものが生まれない、育たないことになる。

ハラスメント、狂気への契機はいうまでもなく嫉妬だ。男女の愛の結果としての嫉妬からいくつの悲喜劇が生まれた来たかは知らない。これまた類推を許されれば、人類の歴史、人類の数だけあると言えよう。逆に言えば、まさにこの嫉妬の結果として家族が誕生した瞬間からネアンデルタール人と私達人類の先祖との間の運命を分けたのだと主張したい。

愛と嫉妬が、信頼、所有、法を産んだ - HPO機密日誌

私にとっての自由

ということで、私自身にとっての自由とはゲーテの「ファウスト」で語られる「自由」となる。いつもここに戻ってきてしまう。

そうだ、己はこういう精神にこの身を捧げているのだ。
それは叡知の、最高の結論だが、
「日々に自由と生活とを闘い取らねばならぬ者こそ、
自由と生活を享くるに値する」
そして、この土地ではそんな風に、危険に取り囲まれて、
子供も大人も老人も、まめやかに歳月を送り迎えるのだ。

[書評] ファウスト、最期の科白: HPO:個人的な意見 ココログ版

ハラスメント、自己欺瞞の誘惑、あるいは社会的紐帯との軋轢を恐怖するのではなく、むしろ自分が守りたい、自分が達成したい価値「への自由」を日々戦って勝ち取る生き方となる。私は実は自己欺瞞、自己不信の裏返しとして、リスクジャンキーな性癖がある。戦っていないと生きている実感がしない。この微妙なラインの内側で生き抜くことには、愛がなければならないと最近気づいた。って、これはもういいかげんにのろけるなと石が飛んできそうな程書いたのでもう止める。

そして、この危険と隣り合わせの自由こそが、次の結論に達する。

ハイエクの「自由」の帰結とはジェイコブズの言う多様性なのだ。やっと、私の中で経済社会活動と街の活動がつながった。

多様性は政策では作れない: 統治と自由 - HPO機密日誌

いうまでもなく、小倉昌男氏こそがハイエクの自由の代表選手といえる。社会を多様化させ、より豊かにするイノベーションの実行者こそが、「自由人」だと私は信じる。

小倉昌男 経営学

小倉昌男 経営学

*1:この「エリートの呪縛」を見事に漫画にされているエントリーがあがっていた。
承認欲求オブザデッド - orangestarの雑記

*2:「慈愛」ではない。通常あふれでるのは、慈愛であって自愛ではないが、本書では自分の内なる生命力を疎外させずにそのままストレートに外に表現できる人、創発のコミュニケーションができる人という意味と受け取る。

「生きるための経済学」再読

小倉昌男氏の「経営学」を読んで、いかに経済学が捨象してはならない人という要素、特にイノベーターによる革命的生産性向上を考慮していないか疑問に思った。そして、「アダム・スミスの間違い」というエントリーに上げたが、いま考えてみるとこれは安冨先生の「生きるための経済学」の劣化コピーに過ぎないと、再読してよくよくよくわかった。

生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却 (NHKブックス)

生きるための経済学 〈選択の自由〉からの脱却 (NHKブックス)

hpo.hatenablog.com

目次

重要な論点のツイット

「生きるための経済学」を読みながら、いくつかの論点をツイットした。画像に取ってアップしていた非礼を安冨先生にお詫び申し上げたい。安冨先生がいくつかのツイットをリツイートしてくださったのが救い。

togetter.com

大きな決断よりも日常の習慣効用の計算のための無限の計算量ハラスメント・暴力の問題など、再読して私は非常に大きな、かつたくさんのヒントを安冨先生のご著書からいただいていたことに改めて気づかされた。ご家庭の教養であったのか、ご自身で勉強されたのかわからないが中国古典、論語に対する素養も、私のような「論語読みの論語知らず」と比べては失礼だが、共有する背景だと感じてきた。また、私も、家族からの愛の欠乏、家庭内のハラスメント、離婚、仕事中毒などを経てきた。

仕事中毒問題

ここが最大の問題。仕事中毒になるほど細分化、分業されて始めて生産性が革命的と言えるほど向上する。しかし、それは内面的には「中毒」だと。よくよく考えるべき問題。安冨先生と私の最大の違いなのかもしれない。

https://twitter.com/hidekih/status/843455591272001537

仕事中毒は確かに大きな問題。人間性の疎外であり、自分自身をして自動人形にしてしまいかねない危険性がある。私自身もあまりに仕事が忙しくて、ある会社に入社してからの数年間の記憶が飛び飛びにしかない。いまも回復していない。仕事中毒は、「使命」が自分の腑に落ちていなければ確かに大きな「呪縛」だ。安冨先生は、「創発」の生じる活き活きとした生き方をするためには、「呪縛」から解き放たれなければと論じておられる。そして、安冨先生は地域社会をも「呪縛」であると論じられている。ここが最大の論点だと私は思う。

安冨先生は、すべての呪縛、束縛から逃れるために女装までされるようになられた。私は私の愛する人、大切にしたい人達、更に愛する人達の人間関係、そして、その人達が生きていく環境が視野に入ってきた。私の愛する人達は不可分に地域と結びついている。彼らの幸せを考えれば、地域社会の振興に至ることに気づいた。私と私の愛する人々が属する地域社会に貢献する仕事をめいっぱいすることが自分の真の使命だと十年ほど前に決断した。たまたま、私の場合は自分の住んでいる地域と働いている地域が一緒であり、人と人との関係が大変濃い場所であるので、この決断は大変良好なスパイラルをこれまでのところ、私にもたらしてくれている。地域社会に貢献する仕事をすること、そして、一緒にこの使命を達成する仕事をしてくれている同僚達の物心両面の幸福実現をど真剣に目指すことが、私の愛する人々を守り、養い、誇りと感じてもらえるのだと私の中で決着した。

高橋まつりさん問題の本質。本来長時間労働問題として論じるよりも、安冨先生のおっしゃるエリートの束縛、自己欺瞞としてのハラスメントとして議論されるべきだった。

https://twitter.com/hidekih/status/843452822750343168

だからこそ、高橋まつりさんの自殺と関西電力の課長さんの自殺の問題は、安冨先生にこそ論じていただきたい問題の筆頭となる。私のように意図的に地域に後退し、自縄しているものには、自分の地域社会から離れた仕事のやり方をして仕事中毒となられた方々をどう「解毒」したらいいのかわからない。日本の市場の中心で、エリートの呪縛に囚われたところからどう自分自身を「創発」に向けて解放したらいいのかわからない。

純粋贈与と地域で生きる決断

次に桃知さんの「純粋贈与」のことを論じたい。この認識も安冨先生と私を分けている。私は私から見た「純粋贈与」はさまざまな形で実存していると感じている。先日の「純粋贈与」の話しで「互酬ではないか」とツイットいただいた。ポロメオの結び目の話しだ。私は、ポロメオの結び目の結節点のひとつは「互酬」ではなく「無償贈与」でなければならないと想う。「ポロメオの結び目」は実はネアンデルタール人と私達の先祖を分けた時点まで人にとって普遍的な問題であると私は考えている。


嫉妬がなぜ所有を発生させるのか論じたい。それは、男女間の愛が不完全であるから。桃知さんのポロメオの結び目に戻ろう。

天鬻 - HPO機密日誌
愛と嫉妬が、信頼、所有、法を産んだ - HPO機密日誌

私は、安冨先生が論じられている「生きた経済学」の問題は、最近の進化心理学、人類史の立場から再度捉え直すべき問題であると思える。利己心の問題、疎外の問題、共同体の問題は、人類の発生とともにあったものと思われる。なにをして人類が人類なのかという問いにまで安冨先生の問題は深く切り込んでいる。

愛がなくては生きていけない

さて、安冨先生と私の最大の論点についてもう少しだけ。地域社会で生きることを決断した私にとっての「愛」の在り方だ。いや、「純粋贈与」の関係性の問題だと言うべきだろう。「純粋贈与」の大前提として、その人との全人格的なコミュニケーションにおいてハラスメントも、暴力も、存在しえない。その人とのコミュニケーションによる「学習」で、どこまでも自分を変革していいと想える対象が存在するかどうかがいまの自分の在り方にとって不可欠であると考えている。20年にも渡る配偶者からのハラスメントを経て、いまさら何をナイーブなことをと自分でも思う。いや、だからこそ、自分とその人との関係が互酬であれば、お互いの利害が変化すれば関係性は変わってしまう。相手からの「報酬」を期待するのではなく、できればお互いに、少なくとも自分からは、「純粋贈与」を与えたい対象がいることこそが人生の救いなのだと。「生きるための経済学」に精密に論じられているように、仕事中毒はおろか、蓄財すらも自分への嫌悪、不安、虚栄から始まっている。その通りだと思う。自分の生きる使命を相手に与えてしまうことは、新たな呪縛への始まりなのかもしれない。それでも、この選択に私はかけたいといま思っている。

「小倉昌男 経営学」

本書は経営にかかわる者にとって必読書だ。考えに考え抜き、決断し、徹底的に行動する経営者の姿がご本人の口から平易にわかりやすく書かれているという希有な例だ。

小倉昌男 経営学

小倉昌男 経営学

Amazonの商品紹介が見事な要約になっているので、遠慮会釈なく引用させていただく。

「儲からない」といわれた個人宅配の市場を切り開き、「宅急便」によって人々の生活の常識を変えた男、小倉昌男。本書は、ヤマト運輸の元社長である小倉が書き下ろした、経営のケーススタディーである。

全体を通して読み取れるのは、「学習する経営者」小倉の謙虚さと、そこからは想像もできないほど強い決断力である。成功した人物にありがちな自慢話ではない。何から発想のヒントを得たか、誰からもらったアイデアか、などがこと細かに記されている。講演会やセミナー、書籍、マンハッタンで見た光景、海外の業者に聞いた話、クロネコマークの由来…。豊富なエピソードから伝わってくるのは、まさに学習し続ける男の偉大さである。

一方で、並々ならぬ決断力を持っていたのだと思わせる記述がいくつかある。宅急便に注力するため、大口の取引先であった松下電器との長期にわたる取引関係を終結させたこと、三越岡田社長のやり方に反発し、「とてもパートナーとして一緒に仕事をしていくことはできなかった」として取引関係を解消したこと、運輸省を相手に訴訟を起こしたこと…。いずれも確固たる論理がその根底にあった。それにしても見事な決断力と言わざるを得ない。

終わりの部分で紹介されている宅急便の各種サービス内容や、有名なNEKOシステムなどの話は、流通・物流の関係者以外には興味がわかないかもしれないが、全体的に読みやすく、興味深いエピソードが満載なので、読んでいて飽きることがない。経営者としての小倉の人となりが伝わる、好感の持てる1冊である。(土井英司)

Amazon CAPTCHA

中国の物流の近代化がまだまだ進んでいないと聞く。中国に小倉氏のような経営者が出なければ、ネット通販は発達してもどこかでボトルネックが生じて、発展が止まるだろう。

www.nhk.or.jp

ちなみに、本書を読んで人の世の発展とは「一人をもって起こり、一人をもって滅ぶ」のだと改めて実感した。経済学でマクロに資本主義、自由主義を論じるよりもイノベーターがいかに「獣のような経営者魂(Animarl Spirits)」によって生産性を飛躍的に向上させて来たか、どうやったら生産性を革命的に向上させられるようになるのか、をよくよく学ぶべき。

hpo.hatenablog.com