HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

「物語 ウクライナの歴史」 前半

ロシアの侵略が続く中、書店の店先で見つけて読み始めた。ロシアは何度もウクライナを侵略している歴史に改めて驚いている。

ちょうど読み始めた頃にNHKでも取り上げられていた。

www3.nhk.or.jp

ここに取り上げられていない部分の話しをいくつか。

ウクライナがいかにまさにハートランド、大陸の内奥の要衝であることは示すのが紀元前七世紀のスキタイ人の存在。文字を持たなかったのでヘロドトスの記述によるしかないのだが、黄金を基本として高度な文化も持っていたと。紀元前から東西の要衝として栄えていたことをうかがわせる。

スキタイ
企画展「ウクライナの至宝展 スキタイ黄金美術の煌めき」: 山梨県立博物館 -Yamanashi Prefectural Museum-

キエフ大公の十世紀、十一世紀の繁栄は記述の通り。

まず、キエフ大公の「ヴォロディーミル」(在位978~1015・ロシア語名ウラジーミル)は、公国をヨーロッパ最大の版図を持つ国にまで拡大したとされています。キリスト教を国教化したことから「聖公」とも呼ばれるほどです。

【詳しく】プーチン大統領なぜ執着?キエフ・ルーシの歴史とは | NHK | ウクライナ情勢

ヴォロディーミルの玄孫にあたりキエフ公国の最後の繁栄を築いたモノマフ公(ウラジーミル2世)の言葉が興味深かった。

本来、本書の焦眉と言えるのがコサックについての記述なのだがあまりに面白くてメモもとらずに読んでしまった。Wikipediaの記述ではその面白さと隷属から自由を求める民族性が伝わらない。

16世紀にコサックの一部はドン川の下流に移住し、そこで新たな根拠地を創立した。それらのコサックはザポロージャ・コサック[注釈 1]とドン・コサック[注釈 2]と呼ばれ、コサック諸軍の中で最古軍であった。初期のコサックは、没落した欧州諸国の貴族と遊牧民[注釈 3]の盗賊によって構成され、河川が豊かな土地を有する自治共同体を編成し、黒海アゾフ海の北岸地帯で略奪行為を行い、東欧におけるキリスト教の世界の先隊としてイスラムの諸勢力と戦った。

コサック - Wikipedia

この記述の前提にタタール人の台頭などで豊かであるにも関わらず略奪が繰り返された現在のウクライナ地方があった。危険ではあっても、豊かな土地に恵まれたウクライナであったからこそ戦闘集団、コサックが生まれたのだと理解した。

17世紀、ポーランドリトアニアの支配を受けていたウクライナで、頭角を現したのがフリメニツキーであったと。

1647年、ポーランドの貴族でチヒルィーンの副長官ダニエル・チャプリンスキが、50歳を超えていたフメリニツキーの領地を奪おうとした。フメリニツキーはチフィルィーンの法廷やポーランド議会、ポーランド王ヴワディスワフ4世に訴えるが、フメリニツキーの主張が支持されることはなかった。(中略)
1648年、フメリニツキーは、ムィクィーティンのシーチにおける会議によってザポロージャのコサックのヘーチマン(指導者)に選出された。(中略)ここにウクライナは事実上のコサック国家となった。

ボフダン・フメリニツキー - Wikipedia

ただし、ポーランドからの独立を守るために後々ロシアの介入をゆるすことになるペレヤースラウ条約をフメリニツキーは結んでしまう。当然だが、ロシア側はこの条約をもってウクライナがロシアに編入された根拠とするし、ウクライナ側は単なる軍事同盟にすぎないと評価する。さらに、ポーランドスウェーデン、ロシアと三つ巴、四つ巴の戦いの中でロシアは条約違反を繰り返していたと。ウクライナの民族とロシアの民族の根深い対立はこの頃から鮮明であったのだと理解した。

同様にマゼッパの活躍も興味深い。また、ウクライナの独立がいかに危ういかも示している。

ウクライナ・コサックの棟梁になって以後、コサック国家の復興を目指して領土拡大に成功し、ウクライナの文化、とりわけ正教会の発展に大きく貢献した。しかし大北方戦争ロシア・ツァーリ国のピョートル1世からスウェーデン・バルト帝国のカール12世に寝返り、ピョートル1世に背いた罪でロシア政府によって職位剥奪され、ロシア正教会によって破門され、コサックの敗北のうちに病死した。独立したコサック国家を成立させる努力がためにボフダン・フメリニツキーに次ぐウクライナ第2の英雄と考えられている。

イヴァン・マゼーパ - Wikipedia

この時期のコサックの活躍がウクライナとしての民族、国家の自覚を促したことに疑いはない。この後も、ウクライナの人々は大陸中央である東西の国家の対立の地としての悲哀を味わうことになる。長くなったので、一旦ここで区切りとしたい。