HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

「仏にわが身をゆだねよ 歎異抄」

釈徹宗さんの「維摩経」がとてもわかりやすかったので、これまた以前から読みあぐねていた「歎異抄」を拝読した。

初めて歎異抄を従来の仏教の中に位置づけられるのだと理解できた。そう、まだ「南無阿弥陀仏」を「理解」というしかないレベル。以前、勝新太郎さんだったか、若山富三郎さんだったか、映画の中であるやくざ者が放蕩の果てに困窮し、二昼夜に渡ってひたすら南無阿弥陀仏を唱え続けるというシーンがあった。そうすると、ただ阿弥陀如来様が自分の方に迫ってくるのを感じたという。映画の中だが、私の中では他力本願というと、この光景がずっと焼き付いている。

本書を読んで初めて体系的に他力本願、親鸞の教えに触れることができた。また、実に体系的に釈師が書いてくださっているので、私がここでなにを書くより本書を読めとなる。それでも、あえて先さきのためにメモをしておきたい箇所は、本書の最後で繰り返される第4条と第5条。あえて、釈師の現代語訳を載せる。まずは第5条。

「この世界においては、どれだけ愛おしい、不憫である、と思っても、思い通りに救うことはできない。だから、聖道門の慈悲は完璧ではない。ゆえに、他力念仏の道を歩むことこそ、完遂してく大慈悲心なのである」

悟れることのない、罪業そのものの自分。どれだけ親を思い、子を思い、人に慈悲をそそごうとしても、相手を救うことはできない自分。人としていかに正しく生きていこうとしても、道をそれてしまう自分。親鸞のような人物ですら「自分には真実の心などない。ニセモノでありウソ偽りのこの身なので清浄な心などない」と。五十を過ぎたいま、恥の多い人生を送ってきた、いや、いまも送っている自分にはああ、そうなのだと痛感する。

更に第4条がすごい。

「いそいで浄土と成って、まずは縁ある存在から救っていくべきである(まづ有縁を度すべきなり)」

親鸞は浄土へ往って、浄土から還ってくる、往相回向還相回向なのだと解いていると本書で釈師は教えてくれている。お盆を迎えた今、まさに往相回向還相回向を実感する。いや、これは邪道な読み方か。いかに自分が救われない身であるかを実感し、自分を小さくするのが仏道なのだと自分に言い聞かせこの恥の多い人生をそれでも生きていきたい。