大変尊敬申し上げている方のご講話を聞いた。ご講話の中で繰り返し「因果律」について話をされた。この方自体が素晴らしい経営者で人格者であり、また聴衆の方々も実績をあげている経営者や、すぐれた会社の社員という幸運を実感している人々なので違和感なく受け入れられていた。結局、自分の人生自分持ちだと。自分が「因」であり、自分の人生は「果」であるという意味だと受け止めた。古いふるい造り酒屋のご当主のお話を思い出した。
この世の中、そう簡単にうまくはいかない。そういう法則が流れている。でも一つだけうまくいく方法がある。 それは100%、自分のせいにしてしまうことだ。
たったひとつのものごとをうまくいかせる方法 - HPO機密日誌
運命や宿命というものもある。回復が見込めない病に苦しむ人もいる。自分のせいではないとしか思えない貧困の中からぬけだせない人もいる。とてつもない不幸の中にいる人々に働くのは、いかなる因果律なのか?「なぜ私が?なぜこのような不幸が?」と思うのが人の常だ。
「因は縁にあって果を生じる」と仏教でいうときに、縁とはネットワークなのだと知る。どの「因」という砂粒によって「果」とうい雪崩が起きるかわからない。「縁」に因果のモーメントは貯められている。
因果の間の縁 - HPO機密日誌
そのような方に、「因と果の間に縁がある。悪い因縁を断ち切らなくてはならない」と話しても、救いにはならないだろう。何人かの人にとっては、間違いなく因果律の自覚が救済なのだ。が、そこには非常に大きな罠がある、自己憐憫だ。多くの人はこの自己憐憫の罠に落ちると抜け出せない。
それでも、そのような不幸に遭った方に対して、少しでも手助けとなる手はさしのべても、因果律を基に「あんたのせいだ」と蔑む行動は決してあってはならない。それこそが、「差別」なのだ。そして、小さなことでも差しのべた手はよき因縁、よき因果を産むと信じる。
べき分布のグラフを見ていると運命論的に、強いもの大きいものの「winner takes all」な状況は固体化されてしまっているように感じるが実は違う。常に小さきものの中から独自性をもった大きなものへの運動が起こり続け、強いもの大きいもの少ないものが倒されていく中で均衡をとっている。倒されるときにサイバーカスケードが起こる。それは、あたかも、極小から極大へ向かい、極大の中に次の極小がの種が埋め込まれている大極のごとくだ。
小さきもの、弱きものへの慈悲 - HPO機密日誌