HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

記憶とはインシデントの密度

リアルな私のプロジェクトの納期が迫る中、多忙を極めている。いや、多忙を極めていた。それでも、どうしても今日は前々からの約束で今日の午後から日曜日まで続くイベントのお手伝いに出てこざるを得なかった。しかーし!なにもやることがない。ほんのちょっとのお手伝いと、かなり長い時間のだべりんぐ・・・。会社に戻れば、私にしかできない仕事が山積みになっているのに。

そんな中、昔から考えている課題についてふと考えた。なぜだらだら流れる時間と、集中してあっという間に経過してしまう時間があるのかと。ふと、「記憶とはインシデントの密度」なのだと浮かんだ。

時間とは記憶の中にしかない。いまの私には「いま」しかない。記憶という後ろをふりかえることによってのみ、時間という流れを自覚できる。「私」という意識は、意図的にその存在を記憶の中で意識しないと、時間を意識できない。記憶を再構成してみて、やたら時間がながく感じるのは実はこうした「意図的に意識する記憶」、「意識する時間の数が多いからではないか?逆に言えば、意識という「間」ばかりでリアルと感じられる出来事の密度が低い時間ではないか?逆に、集中し、緊迫した時間はあっという間に過ぎてしまう。

結局、時間の長さとは、記憶の中の意識された出来事(incident)の密度にすぎない。出来事の密度が低い記憶の中の時間においては、時間を確認する意識の方が先にたってしまう。結果、やたら時間が長い。逆に、集中した時はその長さの実感が記憶に残らない、問題にすらならない。これは、自分の身体ができごとで満たされているから、反芻するような無駄な「意識」はそこにはない。

逆に言えば、最高に集中し、意識がない時間は永遠なのだとも言える。そして、そんな集中しきった永遠の時間、一回きりの事柄が歴史を作っている。