やはり、その場所に行ってみないと歴史の重みづけが伝わらない。
アビニョンに14世紀に教皇庁があったと。これはフランス王の力のためであったと。
1309年にローマ教皇クレメンス5世がアヴィニョンを居所に定め、1377年まで教皇庁所在地とした(アヴィニョン捕囚)。1426年に大司教座がおかれた。1303年にアヴィニョン大学が開かれ、フランス革命まで続き、法学で知られた。
アヴィニョン - Wikipedia
地元で説明を聞くと、必ずしも「捕囚」というほどフランス王の意思だけでアビニョンに教皇庁が移されたわけではないらしい。旧教皇庁を訪れた時の説明書きによると、政治的なバランスを取るために教皇は積極的にアビニョンに移動したとあった。確かに、北の神聖ローマ帝国、西のフランスと、プロヴァンス地方はその主権がいくども変わっている。
「しかしプロヴァンス=フォルカルキエ伯領はバラバラに分断された。1229年のモー=パリ条約でアルビジョワ十字軍が集結し、1271年のアルフォンス・ド・ポワティエ(最後のトゥールーズ伯ジャンヌの夫)が死に、プロヴァンス侯領はフランス王フィリップ3世が継承し、1274年にローマ教皇グレゴリウス10世へ、創設されたヴネッサン伯領が割譲された。」
強国に挟まれ、四分五裂を続けるイタリアでは、教皇はその権威を保つことはできなかったのだろう。逆に、神聖ローマ帝国も、フランスも、宗教的権威が統治のためには重要であった。このパワーバランスを逆手に利用するために、地中海とローヌ側を通じて、神聖ローマ、フランス、イタリア、その緩衝地帯としてのプロヴァンスの要衝の地であるアビニョンが政治的に重要であったと聞いた。
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これだけ栄えた教皇庁であったことを示すのに建物は壮麗で、巨大であった。しかし、中はがらんどうで荒れ果てていたのに驚いた。
前述のように教皇庁がローマに移った後も、大司教座、アヴィニョン大学とそれなりに繁栄を続けた。これも聞くと、フランス革命で暴徒達が全てをはぎとり、すべてを破壊したのだという。革命の歌、ラ・マルセイエーズのマルセイユから100キロ。革命の暴徒が襲うにはちょうどよい距離であったのだろう。
まあ、お気楽な旅行者の耳学問ということで。どうにも、日本の西洋史で聞いたのと、現実に残っている史跡が合致しなった。まあ、おちのないまま本稿を閉じる。