HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

死者は語る

山本七平の「私の中の日本軍」のこの一節にいまにも通じる「なにか」を感じた。

 私の親しかった同年輩のI少尉は(昭和二十年)八月十三日に戦死した。彼とその部下はジャングルから少し出たところの民家で包囲され、全滅した。私は彼を救出しようとして果たせなかった。ジャングルを出るとき、この民家の焼跡の傍らを通ったが、そのとき思わず「おれだけはジャングルにもどろう」という気になった。
 事実、死者が自分に「おれたちを放って、去って行ってはくれるな」と言っているような気持ちは、すべての人にあったのではないかと思う。

私の中の日本軍 (上) (文春文庫 (306‐1))

私の中の日本軍 (上) (文春文庫 (306‐1))

「なにか」とは死者の声としかいいようのない「なにか」。死者は変われない。死んだまま。死んだままの姿が、後々まで生きている我々を動かし続ける。そうそう、このへたくそな文章を読めるのも、あなたはまだ生きているから。

平時の我々にとっても、葬式とは生きている我々のためにある。死者はいくらお経をあげてもらっても、悟ることはない。

そうそう、ある意味安冨先生の「生きるための論語」も死者の声からいかに自由になるかという本。

生きるための論語 (ちくま新書)

生きるための論語 (ちくま新書)

死者への愛だけでなく、死者への憎悪、うらみつらみも、死者の声を増幅させる拡声器。