HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

ファシズムとカール・シュミット

カール・シュミットナチスを擁護したって本当なのだろうか?

政治的なものの概念

政治的なものの概念

シュミットは、政治には「友と敵」を分けることしかできないんだよ、ということを批判的に書いた人だと思っていた。シュミットの自由主義法の支配に対する批判も当時のドイツの状況を考えるとわかる。絶望だ。

ファシズムの目標とするところは最終的には国力の増強であり、国民の精神力と労働力のすべてを国力増強に動員する体制が追求された。

ファシズム - Wikipedia


ちなみに、ファシズムとシュミットで引いたら、できたのが外山恒一。「ファシズム」については、Wikipediaよりも外山恒一の説明の方がわかりやすかった。外山は実際に根本的な絶望を体験しているから。

ファシストは、民主主義と自由主義とがそもそもは相いれないとする意見(古くはオルテガカール・シュミット、最近でも我が国の呉智英柄谷行人などがよく論じている)に全面的に賛同する。

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外山に従って思考を薦めれば、「アウシュビッツ」とは「国家社会主義」という国家政策の生産的な思想から生まれたのではなく、ファシズムという絶望の果てに生まれた破壊を志向する奇形な友愛のいきつく先であると。*1

社会に対する究極の絶望を生む原因はいくつかある。人が人を理性を持って制御するという近代の理想そのものが根本的な絶望につながる。なぜなら、「ブラックスワン」で指摘されたように、近代理性に反して人が作る社会は本質的に予測不能、計算不能だから。社会体制の設計、官僚機構では幸福も、平和も実現できない。社会、組織は予測不能、計算不能であるがゆえに社会全体、すべての市民に「良い」政策は本質的に不可能である。しかし、「友と敵」に分けて集団「間」の利害を明確にした時にだけ一時的に集団「内」の利害を忘れて協力し合える。これもまた深い絶望への道だ。

ともあれ、もう少しなぜ本質的に人間社会を政治では幸福に導けないかを見ていこう。東さんの言動から。

むろん、そういう社会設計にはコストがかかる(それに計算外のことも起こる——でもそれは信頼ベースの社会でも同じですね)。しかし、そのコストがIT社会の到来で激減しているのもご存知のとおり。ぼくたちは、歴史上はじめて、不安ベースのテクノリバタリアンな社会を実現できる、少なくともその実現を想像できる時代に生きているのです。

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東さんのこの考えの先にはイーガンの「論理空間の限界」ということにつながっている。

ただ、ちょっとだけ踏み出してしまえば、安冨先生の議論と、イーガンのSF作品で模索される「論理空間の限界」という問題が接続可能な気がしてならない。

選択の自由と自己組織化 - HPO:機密日誌

が、イーガンの話しは踏み出し過ぎた。元の路線に戻ろう。

想像しうる最高速の計算機があったら完全な社会体制は設計可能か?仮に「宇宙の究極の答えは42だ」と答えられる性能の計算機があったとしても、常に先はある。その計算機を利用して行動する人間がいる。最高速の計算機を利用する人間の行動は、最高速の計算機では予測不可能となる。その他、語るまでもない様々な相互作用とブラックスワン的不可知性により、完璧な社会制度は設計し得ない。

逆に言えば、社会制度を設計するのに計算機はいらない。シュミットのいうように、そしてナチスがシュミットの政治思想をあまりに素直に実行してしまったように、「あなたがたの存在の根本からの敵はあいつだ」と指さしてやるだけでいいのだから。

これは1930年代に「社会主義計算論争」として議論された問題である。経済を計画的に組織することは、理論的には可能だ。中央当局がワルラスのせり人のように「影の価格」を提示して各企業の需要と供給を調整すればよい。1940年代には、影の価格を実際に計算するシンプレックス法が開発され、戦時経済に応用された。こうした作戦研究(OR)は、戦争のように目的がはっきり決まっていて変化しないときには有効だ。

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これは左でも右でも変わらない。右でも、左でも、社会的な、法的・政策的な提言は人間が人間を完全にコントロールできるという仮定に基づいている。この根本から間違っている。


■追記

それはすなわち、ヒットラーに代表される「自分の国だけは特別」という流派である。

古代史「学」の新局面 - 思い出しておこう−イメージと言語と身体と歴史と