HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

正しいものが強く生き残れなければならないと考えることが罠なのか?

生きている人は自分のやっていることは正しいと思っている。もし間違っているのだ、正しくないのだと思えば、生きてはいけない。したがって、生きている人はすべて自分が正しいと信じているといっていい。

自分の利益を得ることは自分の満足を絶対的に高める。したがって、自分の欲望、自分の利益を追及することは絶対的に正しいことなのだとも感じている。

また、正しい自分は正しいものごとを実現するのだから、自分は生き残らなければならない、それが絶対正しいのだと感じるだろう。

この辺に人の欲望という意思と人が生き残ぬこうとする行為との間に生じる亀裂の種があるように私は思う。

だからこそ、人はこの亀裂を埋めようと科学的知見とみなされているものであれ、神とみなされているものであれ超越的な存在、仕組みを自分の外に置く。超越的な存在の実在を信じることによってのみ謙虚になれ、亀裂を日々の生活の中で意識せずに生きていける。正しいことと自分の利益の矛盾を見ないで生きていける。

超越的な存在があったとしても、どこかで生き残りと正しくあることとの価値の逆転が起こる。「モノポリー」の戦略の基本が生き残りであるように、生き残ろうとする意思自体が絶対に正しいのか?それとも、正しいことを意思すること自体が間違っているのか?

「人はなんのために生き続けようとするのだろうか?」、この恐ろしげな問いこそが、自分で自分に常に問いつでけなければならい。この問い以外の超越的な存在、正しさ、生き残り、すべては罠なのだ。

■追記

出発と到着がかなり似ているんだね。私とはたぶん正反対の立ち位置にいらっしゃるのだろうけど。もしかして、年齢も思ったより近いのかな?

たとえばボクの場合、最初は大学で心理学をやっていたけど、心理学データを処理する

(中略)

デザインや法務や人事や経営の仕事にも首をつっこんだ。

「好きを貫く」よりも、もっと気分よく生きる方法 - 分裂勘違い君劇場