HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

坐禅と脳科学

「単純な脳、複雑な私」を読了した。徹頭徹尾、身が先だと書いてある。誤解を恐れずに書けば、道元さんの言説は現代の脳科学に照らしても正しい。

単純な脳、複雑な「私」 (ブルーバックス)

単純な脳、複雑な「私」 (ブルーバックス)

旅先なので、ポイントだけ書く。いつかまた再チャレンジしたい。

本書において池谷先生は、手を動かすのも、人の意思が先はでない事をさまざまな実験結果から示していてる。普通の常識からすれば、「手を動かそうという意思 → 手を動かす指令 → 手を動かす準備 → 手が動く → 手が動いたという知覚」という順番になる。脳科学的には違う。

実験で得られた順番を説明すると、手を動かすための「準備」がまず始まる。そして準備が整って、いよいよ動かせるぞとなったときに、私たちの心に「動かそう」という意識が生まれる。つまり「動かそう」と思ったときには、すでに脳は動くつもりでいて、とっくに準備を始めたということだ。これがひとつのポイント。
もうひとつのポイントは、この後にもある。手に「指令」が行って実際に動くのと、「動いた」と感じるのはどちらが先かという問題だ。
実はこれも常識とは逆で、「動いた」と先に感じる。それに引き続いて「動け」という指令が手に行くんだ。つまり、筋肉が動くより前に、「動いた」という感覚が生じる。

坐禅は身をもって修行する、行動する。意思、心が先ではない。意思は身体の体質の鏡でしかない。もっと言えば、脳科学での「私」なんて幻想に過ぎないとなる。これもまた、道元さんのおっしゃるとおり。自心自性は常住なるかとあやまる、と。

池谷先生曰く、自由意思はないと。せいぜい「私」にあるのは、自由否定だと。「手を動かしたい」と身体が意思「させ」ようとしたとき、それを押しとどめることくらいだと。free willではなく、free won'tだと。どこの箇所だと言えないところが、私の修行の浅さだが、仏教の「戒」とはまさにfree won'tだ。

他にも、例えば網膜でのスパイクはは光が入った状態が休止状態で、目をつむった状態ではスパイクし続けているという。坐禅で目を開けていることが強調されているのは、この脳科学の事実と一致する。

また、池谷先生はフィードバックにより脳がいわゆるα波を出す状態を訓練で意図的に作り出せるという。これは坐禅のごくごく入り口の事実だろう。

繰り返すが、あらためていつかチャレンジしたい。リカーシブな認識の問題や、時間の問題など、脳科学と坐禅とは混ぜてはいけないものの、向かう方向性が驚くほど近い。