イーガンの諸作品の価値は、基本的に「十分に現実に近い仮想世界は現実世界と変わらない」という一事に徹していること。
- 作者: グレッグ・イーガン,山岸真
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2005/09/22
- メディア: 文庫
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人間の身体の組織、化学組成から、神経網、社会的な構造までコンピューター上でシミュレーションできる時代がかりに到来した未来。イーガンの想定する未来のシミュレーション技術を実際に体験できたら、それは現実世界と変わらない。ただし、物理的な存在としての「実体」は必要だ。その「実体」、いわば仮想世界のヴィークルののバリエーションとして、「ディアスポラ」には、織物の化け物みたいな「世界」だったり、素朴な動物の群れがヴィークルだったり、虫の集団がリアル存在だったりする。そして、「十分に現実に近い仮想世界は現実世界と変わらない」のなら、そんなに高度なテクノロジーによって仮想化された世界でも、うわさばなしやゴシップが飛び交う。もちろん、高度な知性と知性の議論が飛び交う交流も行われる。そんな、来るべき世界をイーガンの諸作品は提示している。
しかし、仮想化された世界の物語を読めば読むほど、私という意識、存在とはこの肉体そのものなのだと改めて気づかされる。人の身体、人のこころの奥深さ、その可能性はいまのままで果てしない。その可能性の端の端しか私という意識には見えていないし、使っていない。
人に秘められた、力は神秘的ですらある。例えば、人が見たまま成す能力はすごい。
- 作者: ダニエル・ゴールマン,土屋京子
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1998/09/18
- メディア: 文庫
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二歳4ヵ月になる被虐待児ケイトは、「サディスティック」と呼びたいほどの行動を見せた。彼女は自分より小さいジョーイに足をかけて床に倒すと、やさしそうな目つきで倒れているジョーイに近付き、背中をトントンと軽くたたいてやり、その手に次第に力を込めて、泣き叫ぶジョーイの背中を殴り続けたのだ。ジョーイが這って逃げるまで、ケイトは身をかがめて六回も七回もパンチをあびせつづけていた。
「EQ」からの引用だ。子どもが親がなした通りに模倣する能力は見たことがある人は誰でも驚嘆し、あきれる。見たまま成すことこそ、本物と模倣の区別がつかない。いや、本来それらに区別はないのかもしれない。
ちなみに安冨歩先生の「やわらかな制御」が指摘するように現在のコンピューターテクノロジーでは、行動の模倣という意味で「ケイト」の足下にもおよばない。
ハラスメントは、人がコミュニケーションを実現するために形成する信念、すなわち相手も自分と同じ世界を持っているだろうという信念と、その信念を基盤として相手を理解するための理論を構成しようという努力とを悪用し、他者を操作しようとすることである。
木の葉の中なのか? - HPO機密日誌
「ハラスメント」と安冨歩先生が名付けた、人が自分の優位な立場を悪用する行為はあらゆる意味で脳神経学的現象とEQを活用している。ネットワーク、コミュニケーション、脳神経学、文化人類学、神経生理学、認知心理学、ギブソン、人工知能、そしてイーガンの作品の示す仮想世界など、多くの問題がここにおいて交差している。
強烈な恐怖の瞬間は情動の神経回路に記憶としてくっきりと刻みつけられる。(中略)精神に傷を負わせる経験は、何であれ扁桃核に「引き金」的な記憶を残すおそれがある。
PTSDの克服に子どもたちの「再現ゲーム」があるという。これは文化人類学などで言われる「循環する時間」概念と比較できないだろうか?
id:akoginaさんからぶくまにコメントもらった。
でもあまりにも「生存」に不利な模倣は淘汰されると思うけどなぁ
そこいらがこの辺の現実のおそろしいところだ。脳はまだ爬虫類だの、豚だのだったころからの異物をいっぱい引きずっている。いわばwindowsがいまだにDOSを引きずっているから、混乱しきっているような状態だな。しかも、原始から言語、現代のネットワークへの適応にいたるまで、混乱した脳であるからこそ適応しているという面があるのも事実。自動車を運転する時に使われる先へ先への予測もそうだし、いろいろな面でこれまた神秘的な直観力なども、構造・組織すら異なる「脳」が組み合わさっているから機能を発揮している。そして、それらがベストの状態で働こうとするがために、「ハラスメント」が生じるわけだ。
ちなみに「異星の客」大好きだ。
http://d.hatena.ne.jp/hihi01/20070525/p2
話題を散らしすぎてしまったが、多層的に構成されたカオスの発生をも含む脳と身体の構造自体が人が人であることであり、そこには無限の柔軟性があるのだと、無理やりに結論づけて今日のブログは終わりとしたい。