それはともかく...
昔から道徳の力について考えてみたかった。
呪詛の伝統から道徳というものは生まれたのだと信じていた。ある意味「元形」の力という神秘的なものを信じていた。
漢字ももともと呪詛のテクノロジーから生まれたものだという白川静さんの説は私にはとても納得性のあるものであった。呪詛の要素を持つ漢字によって東アジアの道徳概念は書かれたからである。
http://hidekih.cocolog-nifty.com/hpo/2004/01/_20040111_.html
道徳というのは、宗教的な心性と結びつき個人の規範となり社会を構成する力となる。
それは具体的な力であり、統計物理学で処理できるくらい単純なものではないかというのが最近の実感だ。
社会の形が決まれば、構成要素としての個人の行動規範も決まる。逆に、個人の行動規範が敗れれば社会もやぶれる。
これは決して法律という強制力を持つ外力ではできないことだ。法律では社会秩序は保てない。