- 作者: 金光淳
- 出版社/メーカー: 勁草書房
- 発売日: 2003/12
- メディア: 単行本
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記憶というのはあいまいなものだ。私はブログで本書についてすでに書評したものだとすっかり信じていた。
本書を読んで、真剣に社会ネットワーク分析について書かなければならないと決意したし、そのデモンストレーションとしてナウシカについて書いてみたりもした。
なによりも金光さんが語るソーシャルキャピタルという考え方に魅了された。必ずしもただしとらえ方ではないかも知れないが、ソーシャルキャピタルというのは、単に金銭的な「社会資本」だけではなく、人のつながりそのものを「資本」としてみなそうという考え方だ。
多分、金光さんと私の立ち位置はかなり違う。それでも、違う前提から出発して、いま現在ほぼ金光さんと同じ結論に達しつつあると言うことに驚きを覚える。
複雑化し、技術革新がすばらしく早くなっている現代において、唯一頼れるフィルターとは、信頼できる友人なのだ。情報は「情けの知らせ」と読むべきなのだ。
最近の技術の問題などわからないし、法律論争も私にはわからない。しかし、それらの問題について誰に聞いたらいいかを私は知っている。というか、聞くべき人のご縁をいただいている。
今回かなり私にとってかなり大きなトラブルを経験したが、そのとき見守ってくれている人達がいると感じるだけでうれしかったし、ファイトをもてたし、なによりもここぞという時に助言をもらえた。
なんといか、こうしたソーシャルキャピタルの形に、これまで自分の中にどれだけ積み上げるかという閉鎖系的な資産形成とは全く逆の、開放系の資産形成、開放系の人の絆というものを感じる。
そうそう、そして多分、ソーシャルキャピタルの考え方のみが複雑さをます社会の中で生き延びる方法なのだ。それは弱い紐帯によってできていて、お互いの信頼によってのみメンテナンスされる。それは、生成し、消滅しうるし、なによりも最初から複雑系のネットワークを前提としている。ここをいかに維持するかという知恵こそが現在私に語れる「開放系の倫理学」であり「複雑系の倫理学」である。
ネットワークをネットワークをもってとらえる。全体という要約を加えるのではなく、全体をその要素ひとつひとつのつながりとしてとらえる。そんな感じだ。