日曜日に長いメモを載せたGlocomのシンポジウムを反芻している。少々いらいらする印象が残った。それがなんなのかをうまく言葉にできなかった。
さっき、階段をかけあがりながら、私と東さんとの向いている方向があまりにも違うということによるのだと気づいた。私は、リンクすること、言語でも、子どもでも、生み育てることに価値を置いている。だからこそ相互作用を感じること、非線形な科学について学ぶこと、さまざまな局面にべき乗則を見出すこと、そしてつながりのひとつの展開として信頼通貨ということを考えることが好きなのだと想う。
メモには十分にかけなかったように想うが、東さんが、「倫理の方向性を排除する」とか、「誰ともつきあわない孤人であっても、自分が好きなことをする」といった発言を聞いていると、この人は本質的なアナーキストであり、本人は否定するだろうがニューアカの影響をもろに受けているような印象を受けてしまう。
なんというか、絶滅も生成もリンクによってはじめて法則性を持ちうる。好むと好まざるにかかわらず世界とつながりを持てない、人とリンクできない人というのが存在するのだとすれば、それは淘汰されていってしまう存在なのだと感じる。
ビートルズの「Nowehereman」を想いだす。
そうそう、それで、東さん言説の志向性が、社会主義的な思想の影響を想わせるにもかかわらず、世界はひとつも独裁制も、民主主義の落とし穴も、ネットの創発現象の悪用を、克服できていないにもかかわらず、「ぼくらの世代には、社会主義、共産主義を前提として言説がぴんとこない」という旨の発言をするのが気に入らない。いや、これは真に個人的な感想なのだが、東さんご自身は社会主義の影響化になくとも、東さんを生んだ背景は社会主義的な活動がうみだしたものなのだと感じる。憶測にすぎないが。