感情というのは不思議なものだ。人とあっても、不安を掻き立てられる人もいれば、会うだけで胸にあたたかいものが流れるような方もいらっしゃる。それは、知識として語られる話の内容に必ずしもよらない気がする。それが人格の力なのだろうか?
だとすれば、人格の力とは限りなくマッハの原理というか、生態学的な、あるいはエッジがつながっていく力なのだと感じる。私の感情とは、私の生態学的な地位の反映であるに違いない。
よきエッジ、よきリンクは、よき人格を集め、よき生成の力を生む。そして、それは通常の価値観でいえば生成でもあり、消滅でもある。
わるきエッジ、わるきリンク、わるき孤独は、ものごとの停滞を生み、感情を乱す。通常の見た目のよさ、わるさにかかわらない。
かくて、生態学的道徳論をぶちたくてたまらなくなっている私がここにいる。
みんな愛しているよ!
■蛇足
あ、そうそう、そいで問題なのは、あたたかいものを感じる方々とのご縁という快感にオペラント条件付けされてしまうこと。さまざまな締め切りがせまっているにもかかわらず、あたたかい感情を以前感じることが出来た行動をただただ繰り返してしまいがちなこと。人の生にはあたたかいものも、つめたいものもあることを理解し、自分を律することができるのが大人ということではないだろうか。
以上、道徳論終わり(笑)。