HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

自己はひとつ

なんというか、いらないものをつなげていると師に怒られそうな話だが、やはり全体としての自己が、言葉、論理でなく、ひとつになるということが、感情の露出の一形態としてありうると感じる。それこそが、自己をならふということではないか?

私にとっての自己を感じることの第一歩は中埜肇先生の哲学概論にもどっていく。哲学の授業の最後にレポートを提出した。認識について自分で考えるというレポートであった。その提出させていただいたレポートは、ホフスタッターとモナド論の影響を強く受けていた。中埜先生は、カントの認識論やモナド論を講義してくださった。ホフスタッターの「現代思想」に掲載された論文をもとにひとつのモデルを考えた。それは、風船の中に認識の「単子」がふわふわうかんでいるという「映像」であった。それらの「単子」が、「さる」とか、「都市」とかの認識を表わす。そして、感覚的な記述にあたる部分を「手」としてもっている。「さる」だったら、「毛むくじゃら」とか、「ヒト型」とかいう記述の「手」を持つ。「都市」だったら、「におい」とか、「集中」とか、「混雑」などの記述の「手」をもつことになる。記述であるので、当然つなげあえる「手」とつなげあえない「手」がある。感覚的な刺激を受けた時や、思考が動く時にそれらの「手」がつながれ、「単子」同士の構造体が構成される。いや、「手」をつなぎあい、「単子」が構造体になるときに認識が生じるのだとした。脳の中では、常にそれらの「単子」が接合したり、離れたりすることで、認識が生じ、思考が走る。

ゲーデル,エッシャー,バッハ―あるいは不思議の環

ゲーデル,エッシャー,バッハ―あるいは不思議の環

私の中での思考は、常に無というか、先へ先へ進んでいる。「単子」の構造体は常に成長を続けている。その成長には、「思考」となる前の「傾向」が常に予感されている。そして、その突端の部分は「火」というか、なにか先の方向性だけがあって言葉や感触や感情がその後からついてくるように感じられてならない。「単子」が結合していく傾向のようなものがあれば、それこそが私にとって想像の瞬間であり、思考や言葉が先に進んでいく「傾向」なのだ。

そして、その単子すべてがつながってしまう瞬間が悟りのひとつの形ではないかと中埜先生の授業でレポートした。

その直観が客観的に正しいかどうかは、いまだに分からない。しかし、私にとって世界と自己のイメージはそこから常に直線がひける関係にあるように感じる。それは、そのままいまこりまくっているネットワーク思考に通じるし、たとえ坐っているときですらこの感触を感触がある。

そう、きっと人はどこかに基底現実を持たねば生きていけないのだ。