おもったよりも遥かに大きな規模の城だった。
大手門から、混んでいることもあったやたら時間がかかった。逆に言えば、大人数では登りづらい。ということは、平野の城であってもなかなか攻めにくいということになる。
戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏や羽柴氏が城代になると、山陽道上の交通の要衝・姫路に置かれた姫路城は本格的な城郭に拡張され、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張された。
姫路城 - Wikipedia
江戸時代になっても取り壊されたりしなかったのは、西側の外様大名への防衛という意味もあったのかもしれない。
これだけの規模の構造が数百年保たれていることに感激した。