HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

「沖縄返還反対運動」=「沖縄返還運動」

いまのTPPをめぐる議論について、ある方からこう聞いた。

「沖縄が返還される時、社会党共産党学生運動の連中が大反対をした。国が二分されるかと思うほど激しかった。その背景に中国共産党が沖縄を独立させて、自分の支配下に置きたいという狙いがあった。いまのTPPも同じだ。」

いまの沖縄の基地反対運動を見ていると、実際の住民よりも左翼系の政党や団体の橋頭堡になっているようにしか見えない。そもそも米国に占領されていた沖縄の返還自体に反対したその左翼系の人々は、いったいどの面をさげていまの基地反対活動ができるのか?占領時代は基地の設置や、移設を住民側から意見することすらできなかった。返還されたからこそ、現在のように米国と交渉することができる。

 69年11月、佐藤栄作首相の訪米が発表された。米国のニクソン大統領と会談し、沖縄返還についての合意をとりつけるための訪米だった。
 これに対し、復帰協は11月13日、那覇、平良、石垣の三市で「核付き・基地自由使用返還をたくらむ佐藤訪米反対・一切の軍事基地撤去・安保廃棄・11・13県民総決起大会」を開いた。主催者によると、約10万人が集まった。
 本土では、同16日、社会党・総評系団体が全国各地で首相訪米抗議集会を開いた。主催者によると、約120カ所に72万人が集まった(警察庁調べでは、社会党・総評系以外のものも含め全国210カ所に計12万人)。東京では、社会党・総評系の集会に約7万人(警視庁調べは4万2000人)が集まった。一方、「首相訪米実力阻止」を掲げる新左翼系の学生、労働者らがこの日、蒲田駅、品川駅周辺で交番襲撃、バス奪取、バリケード構築などのゲリラ活動を展開。学生、労働者らと機動隊が衝突し、蒲田駅周辺では学生が投げた火炎びんで駅前の路上が火の海と化した。このゲリラ活動で1640人が逮捕され、学生、労働者、警官、市民らのけが人は77人にのぼった。

http://chikyuza.net/n/archives/5688#

これは、当時の騒乱を経験した岩垂弘氏の記事。ちなみに、この岩垂弘氏と私に当時の話しをしてくれた先の「ある方」は同じ年だ。

核と基地に反対したというが、文科省の資料によるとこの学生運動は、明らかに「沖縄返還反対運動」だった。

四十七年(一九七二年)に予定された沖縄の施政権返還に対し、「沖縄返還は、日本帝国主義のアジア再侵略をもくろむもの」と主張して反対する過激派集団は、四十六年十一月の沖縄返還協定の国会承認時を実質上の返還時と称し、闘争の頂点をここにおき、火炎ビン、手製爆弾等の凶器による警察官およびその家族の殺傷、警察施設等の破壊、放火など悪質狂暴な行動に出るに至った。また、沖縄返還闘争の間にあって、全国全共闘連合は、しだいに単なる体制否定と無拘束を行動理念とする過激派小集団に分裂していった。それら小集団の増加とともに、既成派閥間においても主導権争いによる抗争が激化し、「内ゲバ」と称される暴力事件をひんぱつするに至った。

http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198101/hpbz198101_2_219.html#

私には、岩垂弘氏のような左翼系の人々は「沖縄返還反対運動」をいまになって「沖縄返還運動」と正反対に読み替えているようにしか思えない。

ちなみに、どうして沖縄が左翼系の運動の橋頭堡となったかについて。

仲村先生の話によると沖縄県は祖国復帰を念願して学校の先生方が先頭に立って運動を続けてきましたが、その手にはいつも日の丸がはためいていたそうです。それがいわゆる70年安保(昭和45年)騒動の中で、安保反対で盛り上がる本土から左翼の工作員がやって来て、沖縄の教職員組合を洗脳し、いつの間にか「日の丸」が「赤旗」に取って代わり、祖国復帰運動が沖縄返還協定阻止運動に変貌していきました。そしていつの間にか沖縄は左翼政権と左翼マスコミに乗っ取られ、米軍、自衛隊抜きの返還を求める左翼勢力が支配するところとなり、反戦、反米の拠点として、今日まで至っているということでした。

沖縄が危ない: 中山なりあき オフィシャルブログ

中山成彬氏という人をよく知らないが、この話しは他の事実とつじつまがあう。

左翼の「沖縄返還反対運動」は、「沖縄返還運動」という矛盾する等式がそれでもなりたつのだという人がまだいらっしゃれば、ぜひご意見を聞いてみたい。