HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

パイドロス その4 〜「私」は社長にすぎない〜

昨日は、大学時代の友人と所用で会った。某大学の心理学教授となっていた彼は、しかし、まったく学生時代と変わっていない。感動的であった。学生のころの思い出、彼の教育の話、そして、私から持ち出した「禅とオートバイ修理技術」の話などをした。

禅とオートバイ修理技術〈下〉 (ハヤカワ文庫NF)

禅とオートバイ修理技術〈下〉 (ハヤカワ文庫NF)

脳神経の伝達速度の遅さの話をした。異常に遅いと。私が卒論で扱った仮現運動(動きの検出)、立体視などは、ディスプレイの更新速度の4倍程度である60ms*1ないしその倍の120msで生じる。ゼロコンマ何秒の世界だ。網膜から入った刺激が、大脳で動きや立体として認識されるまでわずか数十レイヤー分のニューロンの伝達しかされないスピードで、私たちの脳神経は情報を伝えている。*2普通の感覚では非常に短いと考えられるが、コンピューター素子と比べると大変遅い。遅いのに、コンピューターにはできない「認識」を生じさせることが人間にはできる。誠に不思議でならない。

久しぶりにあった友と話が非常に一致したのは、ここから先。「私」という意識のつながりと、発話したり、手を動かしたりする身体全体の行動とが本来一致するわけはないのだ。「私」以前に身体全体のエージェントが共同作業で動いていて、意識に自分が決定していうと思わせるとより先に、手や足や声帯に指令を送っているのでないとタイミングが合わない。いわば、「私」という意識は、事後連絡しかいかない会社組織の「社長」と同じなのだと、彼は言って笑った。

パーシグはポアンカレの「前知性的な気づき(プレインテレクチュアル・アウェアネス)」という言葉を引きながら、なぜオートバイを修理するときにまず大切なのは、落ち着くことが必要なのかを話している。友の話と一致する。うれしくなってしまった。*3

ちなみに、臨床も扱っている彼の話によると「私」という意識は精神的な危機の時に役立つことがあるのだそうだ。私に言わせると病の原因だという気もするのだが。そういえば、私が社長になったときにみんなに話したのは、「今日より以降、うちの会社で起こることはすべて私の責任です。とにかく、風通しのより会社をつくりましょう」と就任演説をぶった。認知心理学的にもそんなに間違っていなかったのかもしれない。*4

ああ、でも、事後報告ばかりの「私」は、社長就任5年目の私かな?


■補足

いま本屋さんにいる。

さっきネットブックでエントリーあげてから、ニューロンまわりの時間とか大丈夫かなと疑ってた。「進化しすぎた脳」を立ち読みしたら、まあまあこんなものかなという感じだった。そもそも「脳は複雑系」って池谷さんが書いてるね。

進化しすぎた脳―中高生と語る「大脳生理学」の最前線 (ブルーバックス)

進化しすぎた脳―中高生と語る「大脳生理学」の最前線 (ブルーバックス)


■あー、つーか、まんまやん!


*1:「ms」と書いて、「ミリセコンド」と読みます。「マイクロソフト」ではありません。1000分の1秒です。ちなみに、今はどうか知りませんが、当時のNECの98のディスプレイは17msで更新されていました。このスピードだとさすがランダムどっとがちらちらするようにしか見えなかった。

*2:友よ、そうですよね? ⇒ 「進化しすぎた脳」によると刺激を受けてから発語するまでが200msから300msで、だいたい100レイヤーくらいのニューロン「しか」経由していないだろうと書いてあった。ので、100msくらいだとその半分、50前後のレイヤーだと思われる。

*3:カントのアプリオリとこの辺の大脳生理学は対応すると私は信じている。

*4:ご本人から、訂正が来てしまった。
>>『既に事後報告的にしか社員の決定事項を知らされるしかない立場の社長は、しかし常に会社全体の動向に目を光らせている。たとえ、社員の間に葛藤や競争、矛盾や対立があっても、最終的に全体の企業活動がそれなりに進んでいる間は社長は口出ししない。そのくせ、「私」がそれを「決裁したのだ」と思っている。他社(者)から問われれば、「私(弊社)がやりました」と答えるし、責任は「私」がとるのだ。事態が変わるのは、問題が生じた場合である。部下の持っているリソース(ルーチン処理)では対処できないような新規な場面、予想外の展開、危機状態に至ったとき、社員の動きを止めたり、社員間の意見や作業負担の調整のための介入を行う。たぶん「私(リカーシヴな意識;自己意識)」がモニタリングと「主体性=自己決定性の錯覚」を抱く以外の活動を行うことは、実際私たちが普段感じている以上に、少ないのではないだろうか。人間は思いの他、自動的に動いていると思われる。ただし、そこでは常に「私の意志でやっている」という実感(錯覚?)を感じさせる事後報告を受けながら、いざというときに備えているのだろうが。私が臨床で扱っているのは、「専務派」「頭取派」のように(?)、社員間、部署間の対立や葛藤が著しく、社長のところに適切に会社の動向が伝わってこない人たちだ。上述の社員の活動の自動性が、調和のとれた自動性だとすれば、いわば調和を失った暴走する自動性である。その場合、社長(自分)にとっても、意外な行動を会社(法人=人格)がとることになり「心が勝手に動いている」と主体性の錯覚を感じられなくなってくる。自動的に(勝手に)心の部署が活動する(自動性)は、ただそれだけでは病的とはいえない。逆に言えば、自動性を押さえ込んで、全てを意識(私=社長)の統制下に従えようという方向での治療的支援は、どこかで破綻する運命にあるのだと思っている。』<<