HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

パイドロス その3

文庫版下巻の三分の一、第三部の佳境をすぎつつある。添付した画像は、パイドロス(著者自身)の「クオリティー」をめぐる「コペルニクス的転回」を表す。

     

私の位置からすればパイドロスのクオリティとは認識の自己組織化現象だ。あるいは、社会制度としてみれば「貨幣の複雑性」以降の安冨先生の「創発」をめぐる主張だ。振り返って見れば、ちょうどパーシグがクリスと山頂で岩が崩れる音を聞いたように、クオリティー(認識)の生成は、べき乗則としてとらえるべきだ。

禅とオートバイ修理技術〈下〉 (ハヤカワ文庫NF)

禅とオートバイ修理技術〈下〉 (ハヤカワ文庫NF)

クオリティー=認識そのものが自己組織化現象であり、創発であり、クオリティである。そうとしか、私には考えられない。どの道を通っても、ここにたどり着いてしまう。カウフマンが大著を著したように地球の歴史、すなわち私たちの認識しうる客体、環境すべても自己組織化現象であり、創発であり、クオリティなのだ。そうなのだ!

老子」の冒頭の部分を、「道」を「クオリティ」と読み替えた文章には震えた。

これが「道」だと言い表せる様な道は、偉大なる不朽の道ではない。これが「名」だと呼べる様な名は、真実不変の名ではない。天地が創られた時には名など存在せず、万物が生み出された後にそれらは名づけられたのだ。だから無欲な心をもってすれば、万物の深遠なる姿を見る事ができるだろう。欲望の虜のままでは、万物の上辺の姿しか見る事ができない。この両者の根源は同じ一つの物であるのに、それぞれ別の名を持っている。その根源を「玄 – 深遠なる神秘」と私は名づけたが、その玄のさらに玄からこの世の全ては生み出されている。

老子 第一章 道の道とすべきは、常の道に非ず|ちょんまげ英語日誌