HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

パイドロス その2

「禅とオートバイ修理技術」を読み続けている。ほんとうは、今週中にまとめなければいけないプレゼンもあり、仕事の上でも考えなければいけないことが山積みしているし、いまは藤末さんの起業塾の直前で、別のことを書けばよいのだが、やはりここから頭が離れていかない。

禅とオートバイ修理技術〈上〉 (ハヤカワ文庫NF)

禅とオートバイ修理技術〈上〉 (ハヤカワ文庫NF)

文庫版の終わりのほうで、著者がカントの認識論について書いている。アプリオリに人間の側に存在するものがあるからこそ、万華鏡のように変わっていくる感覚を統合して、はさみだの、オートバイだの、デジタルコンピューターだのの認識が生まれるという話が出てくる。このアプリオリなものを、以前のヒュームの哲学などに対してコペルニクス的転換であったと、中埜肇先生に教えていただいた。先生が、「では、このアプリオリなるものを生じさせてものはなにか?これに対しては、カントはXだといって口をつぐんでいる」と講義をされたのが、つい昨日のようだ。

中埜先生の授業に提出したレポートについては以前書いた。

このレポートが社会物理学や、自己組織化の考え方と通じるものがあるのではないかということもマーク・ブキャナンの著書とあわせて書いた。

そして、「禅とオートバイ修理技術」のパーシグがカントについて書き、そして、「クオリティ」と「結晶化」について話をしたときに、認識、特にカントのアプリオリとは、自己組織化によって生まれるのではないかと思った。

いまだに数十ページしか読み終わらないカウフマンの著書に進化における分子の多重接合がますます接合しやすさをまして、巨大分子が生まれていく様子が描かれていた。

カウフマン、生命と宇宙を語る―複雑系からみた進化の仕組み

カウフマン、生命と宇宙を語る―複雑系からみた進化の仕組み


アトムにせよ、モナドにせよ、認識と感覚を自己組織化として描写しうるなら、パーシグのいう結晶化の描写がふさわしいのではないだろうか?

まだ読み終えていない。ゆっくり楽しみながら読みたい。まもなくセミナーも始まる。夜に元気と時間があれば、いくつかぬきがきをしたい。