HPO機密日誌

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

大学スポーツ

大学スポーツと大学の関係が取りざたされている。私も大学時代に運動部に所属していた。指導者に苦しめられた記憶が蘇って来た。いくら時間が経っていることとは言え、万一関係者に迷惑をかけたくないのでぼかして書く。

私の部活動もかなり厳しいものだった。ほぼ毎日練習、長期休暇はおろか週末もかなり合宿生活するのが当たり前だった。その分野での日本一を目指せる部活動であったのでまあ当たり前。

急転直下だったのは冬のある日。詳細は書けないが、学生ではなく部で指導をお願いしてた職員のある取り決めによって、部員ではないが人が二人も亡くなる事件に巻き込まれた。今、考えてみればその大学職員の取り決めによって我々は巻き込まれた訳だから、その人こそが辞任して責任を取って貰えばよかったとも思える。

いずれにせよ、それからニ年近く運動部としての活動は休止となった。数十人いた部員が一番最悪の時期には二人だけとなった。私はそのうちの一人だった。ニ年間はひたすら再発防止策を作った。途中から基礎体力づくり程度の活動はあったのだが、部長から「お前は後方支援が役割なのだから、外から活動を見て欲しい。基礎体力づくりにも参加するな」と、今考えれば非常にこれまた理不尽な理由で活動から外れた。渉外やら、管理、対策のまとめなど、その当時の状況としては、十分中核にいたので基本体力づくりの走り込みやら、ウェイトトレーニングくらい参加しても視点は変わらなかったなと。

思い出せば、部の指導をお願いしてた先生、職員には苦しめられた。これまた今考えれば、さっさと辞めてもらって、ほかの指導者を仰げばよかっただけ。事実、部活動の完全再開後、何年かでそうなった、死人まで出る事件の当事者は、私達学生では明確になく、職員側の問題であったのだから。学生時代はかなり自主的に決断し、活動し、部を消滅から救ったつもりになっていたが、人生経験を積んだ今の自分から見れば確かに幼かった。職員と先生に翻弄された悲しいニ年間だった。

部としての活動を再開できた時は感激した。しかし、もうこれで自分の果たすべき役割は済んだと考え、部活動を辞め、北海道に昔の恋人を追って旅に出たのだが、それはまた別の話。旅の後はひたすら卒論に打ち込んだ。いや、それもまた別な話だった。肝心なのは、幼かったとは言え、一つの組織の危機をのり切る経験をさせてもらったこと。あれから三十年間、仕事の上でも、個人としても、どれだけの危機を乗り越えて来たかわからない。文字通り死ぬかと思う危機もあった。それでも、乗り越えて来れたのは、あの時の部活動の危機を最後の最後まで支えきれた経験があったから。

こんなマイナーブログの駄文がいままさに部活動の存続に悩んでいる人に伝わるとは思えないが、危機に立つ人たちに、どうかいま出来る限り主体的に活動して欲しい、そして、その経験は必ずあなたたちの人生の肥やしになると伝えられるなら伝えたい。